20年以上まえにニュージーランドに住んでいたとき、ぼくはオークランドを「拠点」としていた。最初の半年ほどをオークランドに住み、それからニュージーランドを北から縦断する旅に出たぼくは、やがて、オークランドのある北島からフェリーに乗って南島にわたった。
まだ冬がようやく明けたころであった。北島とはまったく異なる風景に、ぼくは魅了された。
南島で行ってみたいところはいくつかあり、そのうちのひとつが、クライストチャーチであった。でも、ニュージーランドの自然にすっかりはまってしまっていたぼくは、クライストチャーチにはそれほど滞在はしなかったのだけれど、数日滞在したバックパッカー向けの宿の空気感が、ぼくの記憶の片隅に、いまもただよっている。
そんなクライストチャーチでの悲しいニュースを見ながら、そんなニュージーランドの記憶がわきあがってくる。
大学を休学して住んだニュージーランド、それから夏休みを利用して旅したアジアなどの経験を重ねながら、その「道ゆき」で、ぼくは、社会学者の真木悠介(見田宗介)の本に出会った。ニュージーランドやアジアでの経験の素地がぼくのなかになかったら、ぼくは真木悠介の本に出会うことはなかったかもしれない。出会っていても、ぼくは読み流してしまったかもしれない。
それほどに、ニュージーランドやアジアでの経験は、ぼくにとって決定的であった。
クライストチャーチのニュースを見ながら、ニュージーランドの記憶とともに、ぼくの脳裡にうかんできたのは、真木悠介の「言葉」であった。
「旅」ということが、真木悠介にとっても転機となる経験であったが、真木悠介は『旅のノートから』という著書で、つぎのように、言葉をつむいでいる。
…関係のゆたかさが生のゆたかさの内実をなすというのは、他者が彼とか彼女として経験されたり、<汝>として出会われたりすることとともに、さらにいっそう根本的には、他者が私の視覚であり、私の感受と必要と欲望の奥行きを形成するからである。他者は三人称であり、二人称であり、そして一人称である。
真木悠介『旅のノートから』(岩波書店、1994年)
<横にいる他者>という他者論である。「他者」というと、たとえば<向かい合う他者>というように捉えられる傾向にたいして、真木悠介は<横にいる他者>という視点、そして、「三人称であり、二人称であり、そして一人称」である<他者>について書いている。
世界がもっとひらかれ、世界の多様性を享受してゆくには、この<横にいる他者>という視点、そしてそのような生きかたによってくるのではないか。ぼくは、そんなふうに考えている。
ニュージーランドでの暮らしと旅は、このことを切実に感じるための経験の土台を、ぼくに与えてくれたのである。クライストチャーチのニュースを見ながら、ぼくはそんなことを思う。