<生きることのリアリティ>について。- 海外を旅し、海外で暮らしながら、思い、考えること。 / by Jun Nakajima

日本の外(「海外」)で暮らしてきた時間も、17年ほどとなった。人生の5分の2以上である。

海外ですごす時間が徐々に長くなってきたころ(それがいつだったか正確には思い出せないけれど)、「海外」で暮らす時間が、人生のうちの「半分」を超えると、どんな「感覚」を覚え、どんなことを考え、どんなふうにじぶんをかえてゆくことができるのだろうかと、思ったことがあった。

今は、その「地点」にさしかかったところである。でも、じっさいにその「地点」に近づいていくと、そんなことはあまり考えなくなった。それでも、ときおり、日本で暮らした時間と海外で暮らした時間を数えて、比べてみることがあるのである。


なにはともあれ、人生の5分の2以上を海外で暮らしてきたところで、「海外で暮らす」ことによってより鮮明に記憶にやきつけられたことについて、ブログ(「人生の5分の2以上を「海外」で暮らしてきて感覚すること。- 身体にきざまれる<日常の風景>。」)を書いた。

ブログのタイトルに書いたように、より鮮明に記憶にやきつけられたことのひとつは、<日常の風景>である。ニュージーランドの、シエラレオネの、東ティモールの<日常の風景>が、ときおり、ぼくのなかで<再生>されるのである。まるで、「今、現在」、その日常をこの眼で見ているかのように、である。

このことはぼくにとってとても大切なことなのだけれど、<日常の風景>は、「知識」としてではなく、身体的な記憶として、ぼくにリアリティを与えてくれる。動画や記事などで「知る」のではなく、この身体にきざまれるように、<リアリティの感覚>が生きている。


海外で暮らすようになるまえ、ぼくは、アジアを旅していた。

「旅」で獲得したものは、ありきたりの言葉かもしれないけれど、<生きることのリアリティ>ともよぶべき感覚であった。そのことは、旅をしている最中も感じるところであったけれど、旅のあとにふりかえりながら、より明確にことばにすることができたことでもあった。

「海外に暮らす」ことにおいても、いくぶん異なる仕方で、まただいぶ時間が経過してゆくなかにおいて、これまで暮らしてきた場所の<日常の風景>が、ぼくに「リアリティ」の感覚を与えてくれていることに、ぼくは気づいたのである。


それは、ぼくに、見田宗介(社会学者)の「生きるリアリティの崩壊と再生」にかんする見解を思い起こさせる。

見田宗介は、講演「現代社会はどこに向かうかー生きるリアリティの崩壊と再生ー」(2010年8月、福岡ユネスコ協会)で、次のように語っている。


…ボランティアに限らなくてもいいですけれども、実際に自分が役に立つようなことならばやりたいと思っている青年と、リストカットをする、あるいは無差別殺人をする青年というのは同じものを求めているわけです。つまり、それは生きることのリアリティを求めている。そこが大事だと思います。今の日本の若い人たちはいわば同じものを求めているわけですが、求め方が違っているのです。日本の若い人たちが自分の体を傷つける、あるいは人を傷つける、あるいは人を殺そうとする、そういうものとは違った仕方で、生きるリアリティを求める方法を見つけ出すことができれば、そこでもう一つ新しい時代が開けてくる可能性があるだろうと、そういうふうに思うわけです。

見田宗介『現代社会はどこに向かうかー≪生きるリアリティの崩壊と再生≫ー』(弦書房、2012年)


「生きることのリアリティ」。

そう書くのはむずかしくないけれど、それは、頭で「知る」ことでなく、全身で生きてゆくなかで<知られていく>ことである。

それなりの時間を海外で暮らしてきたなかで、そんなことを、ぼくは思い、考えている。