河合隼雄が語る「鶴見俊輔」。- 「天性のアジテーター」というちから。 / by Jun Nakajima

2019年は鶴見俊輔(1922-2015)の作品群を読もうということで、年初に、鶴見俊輔『思想をつむぐ人たち』黒川創編(河出文庫)の本をひらいた。言い訳をするならば、いろいろとほかのことをしているうちに、この本の途中でとまったままに、早いもので3ヶ月近くがすぎた。

でも、もうひとつの理由としては、鶴見俊輔の作品を読んでいると、ぼくの関心と思考の輪がひろがってゆくことがあげられる。『思想をつむぐ人たち』でとりあげられる「人たち」を、鶴見俊輔の「眼」を通して語られると、ぼくの関心と思考は、その「人たち」のほうへと、自然と向いていってしまうのである。

そんな「力」が、鶴見俊輔の「語り」のなかには宿っているのかもしれないと思ってしまう。


ところで、心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)が、鶴見俊輔との出会いについて、『「出会い」の不思議』(創元こころ文庫)という本に書いている。

鶴見俊輔を敬遠していたようなところがあると、河合隼雄は鶴見俊輔についての文章をかきはじめている。

敬遠していた理由は、第一に、河合隼雄は頭のいい人を敬遠しがちであること、それから、第二に、鶴見俊輔を「正義の味方」だと誤解していたことにあった、という。


そんななか、鶴見俊輔・多田道太郎とマンガについての評論をやらないかと編集者に誘われたが、マンガはほとんど見ないし、上述の理由もあって、河合隼雄は最初は断ったという。けれども、両氏を交えて飲む場に誘われて、行ってみることにしたのだという。

そして鶴見俊輔に会ってすぐに、鶴見俊輔を誤解していたのだということを、河合隼雄はさとることになる。とりわけ、鶴見俊輔の「目の輝き」がすばらしく、頭のいい人で頭の悪い人や弱い人の気持ちがこれほどまでにわかる人はいないだろうと思ったのだという。

さらに、鶴見俊輔が語る「マンガの面白さ」に、ひきこまれていく。鶴見はマンガの台詞もおぼえていて、熱演してみせる。シェイクスピアやゲーテの言葉を暗記している学者や偉い人はたくさんいるけれど、マンガの台詞をおぼえている人はあまりいないから、いっそうひかれてしまう。

こんなぐあいに、河合隼雄が鶴見俊輔と初めて会ったときのことが書かれている。


でも、ぼくをいっそうひきこんだのは、つぎのようなところである。


 別れてしまってから、鶴見さんというのは天性のアジテーターである、と思った。鶴見さんは一般の人の言う「アジる」などということは、まったくされなかった。ただただ、自分にとって興味のあることを話しておられた。ところが、鶴見さんの心のなかの動きが、知らぬ間に私の心のなかの動きを誘発してしまうのである。別にマンガを読んでみませんかなどと言われてもいないのに、自分のほうから自発的に「マンガを読んでみましょう」などと言ってしまうのである。おそらく、…あの目の輝きを見ているだけで、たくさんの人が自発的に何かをやり出したくなったりすることは、多くあるのではなかろうか。

河合隼雄『「出会い」の不思議』(創元こころ文庫)


ぼくは、このことがとてもよくわかるような気がしたのだ。

鶴見俊輔の文章を読んでいると、ついつい「自発的に」ほかの著書や人物を読んでみようかな、調べてみようかな、などと思ってしまうのである。

そんなことをしているうちに、「鶴見俊輔を読む」2019年は、3ヶ月近くも瞬く間にすぎてしまったのだ、というと少し大げさかもしれないけれど、じっさいに、ぼくの関心と思考はひろがっていってしまったのである。

鶴見俊輔が語り、書くもののなかに「目の輝き」が感じられ、そこにひきつけられてゆくように。


また、この「天性のアジテーター」ぶりを、ぼくは、じっさいに「体験」したことがあることを、思い出す。

残念ながら、生身の鶴見俊輔さんにお会いする機会はなかったのだけれど、鶴見俊輔の「人物関係図」を描いたとしたらそこにつながる見田宗介先生(社会学者)の講義で、ぼくは「天性のアジテーター」を体験したのだ。

見田宗介先生は、ただただ、自分にとって興味のあることを語っておられた。やはり、目を輝かせながら。

たった二コマの講義だったのだけれど、ぼくは自発的に、いろいろと学んだり、やってみたくなったりしたのであった。

思えば、鶴見俊輔を2019年に読もうと思ったきっかけも、見田宗介先生の著作(『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』)からであった。


天性のアジテーター。

それは、鶴見俊輔の核心をつらぬくものである。そこに魅力をいっぱいに感じながら、ぼくも、そう思う。