ニュージーランド、シエラレオネ、東ティモール、それから、ここ香港。日本の外(「海外」)で暮らしてきた時間がつみかさなり、あわせて17年ほどになる。つまり、人生の5分の2ほどの時間を、海外ですごしてきたことになる。
時間の「量」が重要であるわけではないけれど、かといって、「量」がまったく意味がないということもない。
海外の旅もいろいろと印象に残っているけれど、それなりの時間をすごしてきたところは、どこか少し異なった仕方で、ぼくのイメージのなかに居場所をみつけているようである。
「海外で暮らす」ということによってより鮮明に記憶にやきつけられたことのひとつは、<日常の風景>である。
「暮らす」ということは、旅における非日常的なかかわりとは異なり、その場における「日常」を生きることである。
気候はどんな感じで、どんな空気感があり、どんなふうに時間がながれ、どんな人たちがどんなふうに歩き、会話しているか。そんな<日常の風景>が、ぼくの記憶のなかに、より鮮明にやきつけられている。
ニュージーランドの、シエラレオネの、東ティモールの<日常の風景>。そのような<日常の風景>が、たとえば、ここ香港の街を歩いているときにも、ときおり、ぼくのなかで<再生>される。
記憶にやきつけられた<日常の風景>が、あたかも、現在進行形で動いているように<再生>される。
そんなとき、今も、ニュージーランドの、シエラレオネの、東ティモールの<日常>がつづいていることを、ぼくはたしかに感じるのである。
そこに、日本の<日常の風景>が加わり、ぼくのなかで、いろいろな<日常>が同時に動いてゆく。
それは、ぼくにとっては、すてきな感覚だ。この世界には、あたりまえのことだけれど、いろいろな場所があって、そこに住む人たちによって、それぞれに<日常>が営まれている。
じぶんが今生きている、この「日常」だけが「世界」ではない。
今こうしているあいだにも、この世界のいろいろなところで、いろいろな仕方で、<日常>が生きられている。
このような感覚が、ぼくの「知識」としてではなく、身体という記憶にきざまれている。この身体的な記憶が、ぼくにたしかなリアリティを与えてくれているようだ。
ぼくにとっては、このことは、とても大切なことである。