イチローの引退記者会見(2019年3月21日)で放たれた言葉たちのいくつかに共鳴し、それらにふれながら、ブログで、《その1》《その2》と、少しのことを書いた。《その1》では、イチローの<喜び>、とりわけ「人に喜んでもらえることが、一番の喜び」ということへの変遷、また、《その2》では、イチローの<生きかた>にふれてきた。
引退記者会見は「質疑応答」形式ですすめられ、イチローの「応答」は、すみずみまで、インスピレーションに充ちているように、ぼくは思う。
ふれたいポイントはたくさんあるのだけれど、《その3》としてもうひとつだけとりあげて、ひとまず「区切り」としたい(また後日ブログでとりあげるかもしれないし、別の機会に書いたり話したりするかもしれない)。
《その3》としてとりあげたいのは、「外国人であること」である(このことをとりあげたのには、ぼくのブログ「世界で生ききる知恵」に直接にかかわることであるし、また、最近ちょうど読んでいた文章、「わたしが外人だったころ」という鶴見俊輔の文章もぼくのなかに印象深くのこっているからでもある)。
1時間30分ほどにわたって行われた引退記者会見の、最後の「質問」に応答するイチローが、「外国人であること」について語っている。雄弁に語るのではなく、ときどき、言葉と言葉のあいだに「沈黙」(沈思)をはさみながら。
質問は「孤独感」についてであった。だいぶ前に、何度か「孤独を感じながらプレーしている」という発言があったことに記者が言及しながら、「孤独感をずっと感じながらプレーしてきたのか」と、イチローに尋ねたのであった。
イチローは、「現在それはまったくない」と応答したあと、「それとは少し違うかもしれないですけど…」と前置きしながら、つぎのように語った。
…アメリカに来て、メジャーリーグに来て、、、、外国人になったこと。アメリカでは僕は外国人ですから。このことは、、、、、外国人になったことで、人の心を慮ったり、人の痛みをこう想像したり、今までなかった自分が、あらわれたんですよね。この体験というのは、、、、、ま、本を読んだり情報をとることはできたとしても、体験しないと自分の中からは生まれないので。
イチロー「引退記者会見」(※KyodoNewsの動画「イチロー現役引退 記者会見ノーカット版」、および、BuzzFeed.News「貫いたのは「野球への愛」 イチローが引退会見で語ったこと【全文】」を参照)
「外国人になったこと」という体験。イチローが語るように、「体験」からでしか感じることのできない側面がある。
この体験において、自分の中から生まれるものは人それぞれであるだろうけれど、イチローにとっては、「人の心を慮ったり、人の痛みを想像する」自分があらわれることになったのだという。
自分の「どの部分」があらわれることになるかは異なっても、外国人であることによって、「今までなかった自分」があらわれてくる。おなじことが、ぼくの「体験」からも言えると思う。
今までの「自分」がまったく変わってしまったり、なくなってしまうというのではないけれど、「今までなかった自分」、あるいは、今まで隠れていた自分があらわれてくる。「外国人であること」を、自分の<幅>をひろげてゆくための契機とすることができる。
もちろん、「外国人であること」で「大変なこと」もある。じっさいにその「大変ななか」にいるときは、やはり大変なことだ。でもそんなことをひっくるめて見てみても、自分の糧となってゆく。
上記の発言につづいて、イチローはつぎのように語る。
孤独を感じて、苦しんだこと、ま、多々ありました。ありましたけど、、、その体験は、未来の自分にとって、大きな支えになるんだろうと、今は、思います。だから、ま、辛いこと、しんどいことから逃げたいと思うのは当然のことなんですけど、でもエネルギーのある元気なときに、それに立ち向かっていく、そのことは、すごく、人として重要なことなんではないかなというように、感じています。
イチロー「引退記者会見」(※KyodoNewsの動画「イチロー現役引退 記者会見ノーカット版」、および、BuzzFeed.News「貫いたのは「野球への愛」 イチローが引退会見で語ったこと【全文】」を参照)
この発言のあと、「締まったね、最後」と、イチローが笑みをうかべながら言うように、この「締め」のあとに、(ぼくが)どんな言葉を付け加える必要があろうか。
でも、あえて一言だけ加えておけば、ぜひ、映像で、この「語り」を聴いてみてほしい。「文字」では視えないものがそこには視え、聴こえてくる(だろう)から。