昨日の日付「3月24日」がなんとなく気になって、なんだろうかなぁと思いつつ、結局わからないままであったのだけれど、今日のブログを書こうと思って「下調べ」をしているときに、記憶(あくまでもぼくの記憶)にのこる「3月24日」を、ぼくが以前書いた文章のなかに見つけた。
2001年3月24日。
その日、ぼくは、社会学者「見田宗介=真木悠介」先生による「講義」を、聴講したのであった。講義は二コマで、題目は、見田宗介『宮沢賢治:存在の祭りの中へ』、それから真木悠介『自我という夢』であった。
到着した見田宗介先生が「今回のテーマ設定の背景」を語る。「テーマ」の設定の背景でありながら、「『テーマ』(what)ではなく『どういう人たちと関わってみたいか』(with whom)ということ」を考えていらっしゃったとのこと。
あの「圧巻」の講義の日から、人生を歩んでゆくなかで、『どういう人たちと関わってみたいか』(with whom)ということが、ぼくのなかに印象深く残っていた。「what」ではなく、「with whom」ということ。
あれから時間が経過してゆくなかで、またぼくなりに経験を重ねてゆくなかで、このことがいっそう、大切なこととして浮上してきているのを感じる。
今、そしてこれからの時代は、「何(what)」をしていくかということ以上に、「誰と(with whom)」関わってゆくのかということが、中心的な課題となるような時代である。ぼくは、そう考えている。
2001年3月24日のときも、その「予感」を感じながらも、いまほどの確信はもっていなかった。時代がすすむにつれて、いっそう、確信に近いものとなってきている。見田宗介先生は、すでに、あのとき、確信をしておられたのだ。あのときの「種子」が、ようやく、ぼくのなかで芽を出すのだ。
「誰と(with whom)」関わってゆくのか、というときに、本を通して関わりたい方々がいる。見田宗介先生のほかに、たとえば、心理学者・心理療法家の河合隼雄先生(1928ー2007)がいる。
河合隼雄先生の本を読んでいて、河合隼雄先生の勧める「この一冊」を、最近、ぼくは手にとった。
本を選ぶにあたっても、「誰に(by whom)」勧められるのかということが、これからの「本の選び方」であると、ぼくは思う。河合隼雄先生による「この一冊」、河合隼雄先生が「名著」だとする本。タイトルは知っていたし、古典的名著だとも知っていたけれど、ぼくの肩は、「誰に(by whom)」勧められるのかという「誰に」に、ぐっと押されることとなった。
河合隼雄先生の勧める「この一冊」であり名著は、井筒俊彦『意識と本質』(岩波文庫)である。井筒俊彦先生(1914-1993)はイスラム哲学の研究者であり、日本でより海外で活躍され、名が知られてきた方である。
河合隼雄先生は、『意識と本質』にふれながら、つぎのように書いている。
…その後記に先生は次のように書いておられる。
「西と東の間を行きつ戻りつしつつ揺れ動いてきた私だが、齢ようやく七十に間近い今頃になって、自分の実存の『根』は、やっぱり東洋にあったのだと、しみじみ感じるようになった」。
この本は何度読んでも教えられるところのある名著だが、東洋思想が西洋の知に照らされ、しかも平明な言葉によって述べられている。「この一冊」などという原稿を依頼されて、この書物をよく取りあげたものである。河合隼雄『「出会い」の不思議』(創元こころ文庫)
井筒俊彦という碩学が「齢ようやく七十に間近い今頃になって、自分の実存の『根』は、やっぱり東洋にあったのだ」と感じようになったと言われて、そして河合隼雄先生に「この一冊」だと言われて、『意識と本質』を読まないわけにはいかない。
でも、本をひらいて、ぼくは「この一冊」ということの深みとひろがりを知ることになった。なにしろ、「すごい」本なのだ。
それにしても、今年は、1910年代から1920年代生まれの先達に、ぼくはなぜかひかれてやまない(※ブログ「1910年代から1920年代生まれの先達に、ぼくはなぜかひかれる。- 串田孫一にふれながら。」)
井筒俊彦。「すごい」方に、ぼくは出会うことができた。