心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)が「この一冊」として勧める、井筒俊彦(1914-1993)の『意識と本質』(岩波文庫)。河合隼雄先生に「この一冊」だと言われて、読まないわけにはいかない。
これからの時代を生きてゆく「指針」としては、この、「誰(whom)」、ということがキーワードだ。どのような方々と関わっていきたいのか。
だから、ぼくが関わりたい「河合隼雄」という人物に勧められるのであれば、まずは読んでみる。「何」が書かれているかあまりはっきりしない本であっても、読んでみる。ぼくはそう感じ、その感覚にひかれるままに、井筒俊彦の『意識と本質』をひらく。
河合隼雄のほかに、思考と感覚を深く信頼してやまない大澤真幸(社会学者)は、かつて、「古典」にかんする新聞の連載で井筒俊彦の『意識と本質』をとりあげて、つぎのように書いている。
本書は、人間の意識がどのように事物の本質を捉えるのか、ということについての考え方の違いを基準にして、イスラームやユダヤ教までも含む多様な東洋哲学を分類し、それらの間の位置関係を明らかにした書物である。東洋哲学全体の地図を作成しようとしているのだ。
こんなことができるのは、まず井筒俊彦だけだ。井筒はイスラーム思想を中心にあらゆる東洋哲学に(実は西洋哲学にも)精通していた碩学(せきがく)中の碩学。井筒の前に井筒なく、井筒の後に井筒なし。こう言いたくなくる。大澤真幸「全編を貫く「普遍」への意志 井筒俊彦「意識と本質」」、連載「古典百名山」、朝日新聞(2017年6月11日掲載)
井筒の前に井筒なく、井筒の後に井筒なし。
『意識と本質』が、ぼくにとって初めての「井筒俊彦」なのだけれど、大澤真幸がこの言葉を「言いたくなる」気持ちが、ぼくは充分にわかるのである。
ぼくにとっては、もともと、「本質」ということが主要なテーマのひとつであった。「本質」とは、「Xとは何か」という問いに対する(正しい)答えであると、大澤真幸は書いているけれど、このような「問いの立て方」が、ぼくの好奇心を駆動してきたことを、ぼくは思う。
たとえば、修士論文では「開発とは何か」という問いをタイトルにして、「開発 development」の「本質」を、じぶんなりに突き詰めていった。「開発 development」の「方法・手段」を主題にすることもひとつだけれど、ぼくは、どうしても「本質」を突き詰めたくなったのである。
そんなふうにして、「Xとは何か」の「X」をいろいろに変えながら、ぼくはいろいろなことの「本質」をつかもうとしてきた。(ちなみに、井筒俊彦は本のなかで「花」を例としてとりあげることが多い。)
でも、そうこうしているうちに、「自分の考え方」そのものを主題にする方向へとおしだされてしまった。それから「考え方」ということにくわえて、このじぶんの「意識」という次元へとおしだされてゆくことになる。
だから、「意識と本質」という問い方はまさしく、ぼくがそう問わざるをえないところにおしだされたテーマであったことを、『意識と本質』を読みながら思う。
しかし、名著の名著たる所以は、さまざまな読み方ができることであり、『意識と本質』もさまざまな読み方にたいし、さまざまに光を放つ本である。
ぼくは「異文化」という視点をもちこんで読んでいて、東洋と西洋の<境界線>で考え続けてきた井筒俊彦は、そんな視点にたいしても、明晰な論理を展開してみせてくれている。
昨日も言ったけれど、「すごい」としかいいようのない本、そして人に出会うことができた。
井筒の前に井筒なく、井筒の後に井筒なし。大澤真幸の言葉がぼくのなかで、こだましてくる。