「過去」を手放しながら、 意識に現れた恩師の言葉に、ふたたび向き合う。 / by Jun Nakajima


だいぶ昔のことで、正確にいつだったのか覚えていないのだけれど、高校生か大学生になってから、小学生のときの恩師に会いにいったことがある。もう、20年から25年ほどまえにことになる。

こんな具合に「いつ」だったのかも覚えていないし、またなぜ会いにいったのか、そのときぼくはなにを抱えていたのかも覚えていない。

けれども、あのとき訪れた学校(恩師が移られていた別の学校)の校門から下駄箱にかけての風景、そしてその風景の空気感のようなものが、なぜかぼくの記憶のなかに残っている。

でも、ぼくのなかにありつづけている、そのときの「教え」が、より鮮烈に残っている。


放課後の、夕暮れ時のことだったと思うのだけれど、近況を含め、いろいろと話をしながら、(たぶん)最後のほうで、恩師がぼくに向かっていわれたのだと思う。


「過去を振り返るときではないでしょ」


そのときに発せられた言葉はもう少し違う言葉だっただろうけれど、ぼくの「受け取った言葉」としてのニュアンスと混ぜ合わせると、そのような言葉であった。

「過去」を振り返っている場合ではなく、今を、そして未来に向かって歩むときでしょう、と、厳しさと優しさの両方が込められた言葉を、恩師はぼくに向けて放ってくれたのである。

昔の先生に会いにくるということは、ぼくが「現在」に問題・課題を抱えていて、ある意味「逃げ場」としての<過去>へと戻ってきたように、恩師はどこかで感じとられたのだろう。会いにきたぼくを、逆に「つきはなす・つきかえす」ことで、現在と未来にぼくを向けさせたのであった。

そんな言葉を受けて、「せっかく会いにきたのに…」という気持ちがいくぶんか湧いたのだけれど、時間が経てば経つほどに、ぼくはこの言葉に生かされているように感じるようになっていった。


そして今、現在と未来に目を向けながら、しかし、物理的に(家のあちこちに)そして心理的に(ぼくの内面に)、さまざまな「過去」が、好ましくない仕方で散乱し、つみあがり、ながれをせきとめている状況に正面から向き合っている。

恩師の教えからブログを書き始めたのだけれど、じっさいには、そんな状況に向き合っていたら、恩師の言葉が思い出されたのである。


「過去を振り返るときではないでしょ」


「過去」を大事にしない、ということではない。「過去」を振り返り、「過去」にきちんと向き合うべきときもある。「過去」の思い出にひたることだって、あっていい。

でも、「過去を振り返るときではないとき」が、やはりある。

恩師はそのようなタイミングを絶妙の仕方で感知し、教え子であったぼくに、<気づきの機会>を与えてくれたのである。「機会」と書いたのは、当時、ぼくが抱えていた問題・課題を詳細に話した記憶はないからである。ぼくがじぶん自身で気づき、向き合う機会を与えてくれた。ぼくはそう思っているのである。

物理的に、そして心理的に、「過去」を手放しながら、ぼくの無意識から意識の表層へとふたたび顔を見せた、恩師の言葉。

<気づきの機会>としてのこの言葉に、ぼくは20年以上経ったあとに、ふたたび向き合っている。ここ香港で。