「ひとり旅」という旅の形式と方法。- 内向的でありながら外向的であること。 / by Jun Nakajima

1994年、大学1年の夏休みに、ぼくははじめて「海外」を旅した。

横浜から大型客船の鑑真号にのって、中国の上海を最初の目的地とし、上海から北に向けて(西安→北京→天津)移動してゆく旅であった。

こだわったのは「ひとり旅」ということであった。旅の終盤に北京の故宮で大学の友人とおちあう約束をしてはいたのだけれど、そこまでの旅路は「ひとり」であった。


「ひとり旅」にこだわった理由は、じぶんの好きな仕方で旅をしたかったこともあるけれど、自立への志のようなものも少なからずあったし、モデルとなるような旅人たちに見習ったということもあったと思う。

ひとり旅では、当たり前と言えば当たり前なのだけれども、普段の日常に比較して、「ひとり」になる時間が圧倒的に多くなる。「ひとり」であることの自由さを楽しみながら、でも、異国の地の宿でひとりでいるときなど、深い孤独の暗闇にまよいこんでしまうこともある。

深い孤独の暗闇のなか、思ったことを文章に書くことでじぶんやじぶんのなかの他者と対話して、孤独感をやわらげたこともあった。

たとえばそんな風にして、「じぶん」と向き合う時間も増え、「じぶん」と向き合う深さも深まった。

「ひとり旅」は、旅路は結構忙しかったりもするのだけれど、それでもやはり、「じぶん」の内面と向き合うための機会として貴重な方法であった。


このような「ひとり旅」は、ひとり旅をしてきた人たちには「当たり前」のことだろうし、ひとり旅の経験がない人たちも想像がつくところである。

外部からの見え方によっては、ひとり旅によって<じぶんに閉じこもる>、というように見える。それは「正しい」見方ではあるのだけれど、「ひとり旅」の一面をとらえただけである。

「ひとり旅」という方法は、<じぶんに閉じこもる(向き合う)>というじぶんに向けられた方向性とは逆に、「ひとり」であるからこそ、<外部にひらかれている>形式でもある。旅を共にする人たちとの「共同体」を形成して、外部に対する皮膜をつくってしまうのではなく、ひとりであることで、誰とでも接する可能性にひらかれる。

「ひとり旅」とは、「ひとり」という言葉の語感とは裏腹に、外部に向かってオープンにひらいてゆく方法でもあるのだ。

実際に、「ひとり旅」をしていると、旅路でいろいろな人たちと出会う。相手も「ひとり旅」をしている人であったり、現地の人たちであったり、出会いの量と質が異なるように感じることもある。


1994年、中国の旅においても、「ひとり」であるぼくを、ほんとうにたくさんの方々が気にかけてくれたり、声をかけてくれたり、ケアしてくれたりしたものだ。

「ひとり旅」が一番いい、などと言っているのではない。別のブログにも書いてきたように、<横にいる他者>(真木悠介)によって、じぶんが体験する「世界」の奥行きがまるで変わってくることがある。北京の故宮で待ち合わせをした友人の「人柄」と「眼」を通して、ぼくの「世界」は広がってゆき、深まったものだ(ぼくひとりであれば、会わないような人たちに出会い、行かないようなところに行った)。

ぼくが書いているのは、「ひとり旅」は、<じぶんに閉じこもる>(※言葉にネガティブさを感じるのであれば、「じぶんに向き合う」)という方法でありながら、それと同時に、<外部にひらかれている>形式であり、方法であることである。

内向的でありながら、きわめて、外向的である。