ここ香港の「Hong Kong Island(香港島)」側。オフィスビルやホテル、それからマンションなどが立ち並ぶなかに「Hong Kong Park(香港公園)」がある。
より正確には香港公園は高台に位置していて、下方にビクトリア湾やオフィスビルがひろがり、逆にさらに高台のほうを見渡すと住宅やマンションを見やることができる。そんな場所であることもあって、都会の只中にありながら、いくぶんか、香港の喧騒をはなれることができる。
遠方から来た友人家族と共に、喧騒をはなれ、雨上がりの香港公園を歩く。4月に入ってから、香港は夏日のような日が続いていたけれど、ここ数日は「小休止」のように曇り空がひろがり、ときおり小雨がふりそそいでいる。そんな小雨が止んだばかりの、雨上がりの香港公園。いつもに増して、緑がいきいきとしているように感じられる。
すごく大きな公園ではないのだけれど(香港の空間を考えると十分に「大きい/広い」)、都会の只中にたたずむ、この香港公園の中に、「植物園」や「鳥舎」が設置されている(いずれも、無料で入園/入舎できる)。小さくても、「なんでもある」香港。そんなことを感じさせる場所でもある。
バードウォッチングができる鳥舎は、改修が進められている。それでも、新しい鳥舎も含め中に入り、木々のなかで身体を解き放ちながら、バードウォッチングを楽しむことができる。
目をこらすと、鳥たちが木の枝のうえで身体を休めている姿を見つけることができる。あるいは、目の前を一瞬の閃光のように鳥が飛行していったりする。なかなかスリリングなのだ。
今日は雨上がりによる演出であったかもしれないけれど、鳥舎であることを忘れるほどに、木々や鳥たちの存在感が深く感じられる、そんな体験であった。
それにしても、香港に香港公園が存在してくれていることに対して、ぼくは有り難さを感じてやまない。
とくに頻繁に行くわけでもないのだけれど、「もし香港公園がなかったら」と仮に考えると、ぼくの香港生活はいくぶんか(もしかしたらだいぶ)色あせたものになっていたかもしれないと思ってしまう。
たとえば、新宿に新宿御苑がなかったら、あるいはニューヨークにセントラルパーク(実際に行ったことはないのですが)がなかったら、と考えてみるのと、規模は違うかもしれないけれど、似たようなところがある。
そんな具合に、香港公園は、ぼくの香港生活の風景として、ぼくのなかに埋めこまれている(河合隼雄先生の言い方を借りるのであれば、香港公園が「ぼく」をやってくれている)。4月の、雨上がりの香港公園を歩いて、ぼくはそんなことを思う。