日々の暮らしのなか、手持ちの<使えるもの>で、使っていないものや利用していないものがあったりするものだ。
そんな<リソース>は、そこにあることを知っていれば使っていただろうし、あるいは、そのようなものがあれば使い途を考えて活用していただろう。
でも、それらの(豊富な)リソースの存在に気づくことなく、やりすごしてきて、ある日ふとその存在に気づいて思う。あれ、こんなところにこんなにいいものがあるじゃないか、と。
ぼくにとっては、コンピュータのOSにあらかじめ盛り込まれている「辞書」が、そんなリソースであった。
アップル社のコンピュータ用のOS(macOS)を今一度、ガイドブックを参考に、全貌を把握してゆく。設定をひとつずつ確認し、OSの機能をひらきながら確かめる。「辞書」が搭載されていることは知っていながら、辞書を開け「単語」をうちこんでみて、気づくことになる。これまでなんで使ってこなかったんだろう。いい辞書じゃないか。と。
たとえば、英語は「Oxford Dictionary」であり、日本語は「スーパー大辞林」、それから、日本語・英語は「ウィズダム英和・和英」がはいっている。単語には、例文もついているし、それぞれの説明のなかに「単語」をクリックしてその単語に飛べたりもする。
こんなことが、コンピュータではよくあるかもしれないと思う。
コンピュータを手に入れ、あるいは仕事でコンピュータあてがわれるとき、その機能をすべて理解してから使い始めるという人は別にして、それ以外の人は「自分が当面使う機能」にしぼって、キーボードをがちゃがちゃと動かしはじめる。
文章や報告書を書くためのソフトウェア、表計算などのソフトウェア、Eメールなど、それらを使いこなせば生活や仕事のタスクもひとまずこなしてゆくことができる。「足りない機能」があれば、他のソフトウェアなどをオンラインで探しては追加していく。
そんなふうにして、「自分が使う機能」が固定化していってしまうことになる。
つねにアンテナを張って、機能を見直し、新しいものを取り入れることが得意な人や好きな人はこれまた別として、そうでないと、ある程度の「自分が使う機能」が固定化してしまうのだ。常々アップグレードさせなくても、ある程度の機能を持っていれば、目の前のことがらを遂行してゆくのに事欠かないわけだ。
こうして、他にいろいろと機能がついていることは知りながら、結局は「自分が使う機能」の枠から出ることがなくなってしまう。だから、ときには、その枠から出て、コンピュータの機能の全貌を確認してみるのもひとつである。
そして、このようなことは、コンピュータだけに限定されることではない。
ぼくたちが日々暮らしてゆくなかで、仕事をしてゆくなかで、手持ちの<使えるもの>を使っていないかもしれない、使えていないかもしれない。そんなふうに、自分や自分の周りを眺めてみることができる。
もしかしたら、「何か」が見つかるかもしれない。