「未来」の使いかた。- 未来は「未知」であるという前提の生きかた。 / by Jun Nakajima

「未来」を手にいれたとき、それは人間にとって、大きな「解放」であった(古代日本人にとっての「未来」はつぎの収穫までの時間ほどであった、など)。けれども、近代・現代は「未来」を極端な仕方で、あるいは間違った方向に向けてしまうようでもある。

人は、<今、ここ>の生を充実させることもできるし、あるいは<未来>の目標によって今を充実させることもできるのだけれど、未来が、現在の生を抑圧したり、不安をかきたてるものとなってしまうのだ。


思想家・武道家の内田樹は、「不思議なことなんですけれど」と前置きをしながら、「未来は未知だ」と思っていない人たちのことを語っている(内田樹・池上六郎『身体の言い分』(毎日新聞文庫、2019年))。つまり、未来は「わかっている」と思っている。

少なくとも、「未来はわかっている」というような仕方で、発言し、行動している。そういう人たちについてである。「未来はわかっていますか?」という質問を正面から投げかけたら、「わからない」と応えるかもしれないけれど、言動が、「未来はわかっている」ということを前提としているかのように、見聞きできるのだ。確かに、不思議なこと、である。


ある日、出版社の女性編集者が内田樹のもとにやってきて、「30代女性のこれからの生き方ガイドブック」のようなものを書いてほしい旨を伝える。この年頃の働く女性は悩み、苦しんでいる。結婚はするほうがいいのかしないほうがいいのか、子どもは産むほうがいいのか産まないほうがいいのか、どのように老いてゆくのがいいのか、等々。

平均寿命が85歳として今が35歳、あと50年間をどのように過ごしたらよいかと訊いてくるわけだ。「正しい老い方のガイドブック」のようなものを望んでいる。そんな依頼がきたわけである。

内田樹は、びっくりして、「このような発想そのものが根本的に人を不幸にしているのだ」として、つぎのように語っている。


内田 …残りの50年をプログラムさえ正しく組めば、好きなようにコントロールできるつもりでいる。でも、やるべき仕事の日程がかっちり決まった50年間を目の前にして、その空白をただ塗りつぶしていくような生き方をしたら、それって囚人が出獄までの残り日数を数えているような人生でしょう。カレンダーを×でつぶしていくような生き方をしていて、「正しい×の付け方」を教えてくださいって言ったって、おもしろいわけないじゃない、そんなこと(笑)。
 …筋書きなんてわかったら、生きている甲斐がないじゃないかってぼくは思うんですけど。…何が起こるかわからないからこそ、自分のもっている全知全能をあげて、新しく出現してくる局面に立ち向かえるわけですよね。未知の局面に遭遇する時にこそ、人間のパフォーマンスって飛躍的に向上するわけでしょう。…

内田樹・池上六郎『身体の言い分』(毎日新聞文庫、2019年)


「未来」がひとつの「解放」ではなく、「牢獄」となってしまっている。「未来」というものを取り違え、「未来」の使いかたがズレてしまっている。

自分の未来にたいする不安から、未来をコントロールしたい欲求が起こり、コントロールできると思い込み、「カレンダーを×でつぶしていくような生き方」をしている。不安はなくなったわけでなく、下部ではたらきつづけ、不安とコントロールによって倍増された言動がくりひろげられる。

このようなことは「個人」に帰するだけでなく、近代・現代という時代の社会構造のうちにも、その根拠をもっているものだ(真木悠介『時間の比較社会学』岩波書店)。


「未来」をもったとき、それは、人間にとって、大きな「解放」であった。「未来」を抱くことで、どれだけのビジョンがかたちとなってひらけてきたことだろう。

でも、それは、使いかたがズレてしまうと、解放どころか、人を「牢獄」に閉じこめてしまう。

「未来」の使いかたを、まちがってはいけない。