食事をしながら、ふと、「おいしさ」についてのことがあたまに浮かんでくる。
「おいしさ」とはどのように可能なのか。そんなことかんがえていないで、おいしいものを食べればいいじゃないか、とも思うけれど、世界のいろいろなところでそれなりに年をかさねて生きていると、「おいしさ」ということをかんがえてしまうものである。
「おいしさ」をつきつめてゆくと、そこには食べ物や料理という方向というよりは、この自分の心身にいきつく、と、ぼくは思う(もちろん、食べ物や料理をつきつめてゆく方向にも「おいしさ」を追求していく方向もある。「コーヒー」生産にたずさわってぼくとしても、そのことは重々承知である)。
自分の心身の状態によって、質素な料理もこれ以上ないほどおいしくいただけるし、逆に、どんなに手のこんだ料理も(あまり)おいしくいただけないことがある。
だいぶ前のことだけれど、中国を鉄道で旅していたときに列車のなかで食べたインスタント麺はほんとうにおいしかったし、ニュージーランドの自然のなかで食べるお米もどこまでもおいしかった。
鉄道の旅では寝台で眠り、勝手がよくわからなくて長い時間ほとんど食べずに過ごしていたところ、なにかがきっかけでインスタント麺を手にいれ、中国の人たちにまじって、片言の中国語で会話をしながら、食べたのであった。ニュージーランドでは、一日中歩いたりしたあとに、キャンプ用の小さいガスコンロでお米を炊き、自然に囲まれた環境で食べる。なんでもないものが(というとそれぞれの食べ物に失礼だけれど)、まるで心身にしみいるのだ。
ほんとうに「おいしさ」を感じたときの体験といったとき、ぼくはそんなときのことを憶い出す。
共同通信社の勤務から作家となった辺見庸の作品に、『もの食う人びと』(角川出版、1994年)があるが、『もの食う人びと』の旅で辺見庸が到達した「地点」はそんなところであったと、ぼくは記憶している。「おいしさ」は、最終的には、この「自分」によるのだということ。
通信社では北京特派員やハノイ支局長をつとめ、「現実を直視」してきた辺見庸が、バングラディシュや旧ユーゴやソマリアやチェルノブイリなどで、人びとは今何を食べて、何を考えているかを探っていった『もの食う人びと』の旅での到達点である。
「おいしさ」のことがあたまに浮かびながら、この『もの食う人びと』の旅の到達点のことも憶い起こされる。
最後は自分の心身だからといって、食べ物や料理のおいしさ追求を蔑むわけでは決してない。むしろ、逆である。自分の心身へといきつくことが、同時に、自分の外部のことへの感度を獲得してゆくことである。そんなふうにかんがえる。
問題なのは、自分の心身を忘れて、ただただ、この外部(高価な食べ物、高価な料理など)へと傾倒してゆくことである。そんなことは(ほんとうは)わかっていながら、いつのまにか、このような「外部のもの」へと依存してしまったりするものである。
不思議なもので、自分自身を忘れてしまいがちなのだ。そうして、自分の「外部」にあるものが問題なのだと信じて疑わなくなる。「外部」にあらわれるものは、見えるし、聞こえるし、「明らか」であるからである。
「おいしさ」を感じなくなったとき、ぼくたちは、食べ物や料理ではなく、まずは、自分自身を疑ってみることができる。自分自身の「おいしさ」への感度のことを。