音楽グループ「いきものがかり」に、「アイデンティティ」という曲がある。CM用に作られた曲であるが、その曲名、「アイデンティティ」に目がひかれる。
「わたしは今 わたしは今 夢中で生きていくんだ こころよ自由になれ」と歌われるなかに、しかし、「アイデンティティ」という言葉は出てこない。曲名だけに「アイデンティティ」という言葉があてられている。
それにしても、「Identity(アイデンティティ)」という言葉は、わかったようでいて、なかなか説明しづらい言葉でもある。日本語に訳すとなると、ぼくのあたまのなかには、辞書的に「自己同一性」が思い浮かぶ。しかし、この日本語訳は、原語のニュアンスからずれているようにも感じる。
「自己同一性」以外にも、「主体性」や「存在証明」といった日本語訳がこころみられたようなのだが、やはりニュアンスを伝えきれずに「アイデンティティ」というカタカナ語が定着したようだ(見田宗介『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫)。
見田宗介(社会学者)は、「アイデンティティ」とは結局、「『私とは何か』という問いに答える『自分らしさ』のようなもの」であると、書いている(前掲書)。
この説明はより本質をついたものである。
ところが、「アイデンティティ」という言葉が一般的に使われる文脈では、「私はどこに属するか」というほうに問いが向けられてしまうようなところがある。1970年代に日本の若い世代を深く捉えたこの主題は、1980年代になって全国民的にひろがり、「日本のアイデンティティ」や「日本人のアイデンティティ」などと使われるようになったようだ。「アイデンティティ」ということで、1970年代の青年たちは「個」としての生きかたに焦点をあてたのに対し、「国家」や「民族」というところ(つまり、「私はどこに属するか」)に向けられた力学がはたらいていく。
「Identity(アイデンティティ)」という言葉の困難さは、その日本語訳のむずかしさだけにかぎらず、「アイデンティティ」をめぐる状況の複雑さがからんでいるようだ。
ところで、「アイデンティティ」を「『私とは何か』という問いに答える『自分らしさ』のようなもの」という見方をもう少しひろげて見る人たちもいる。
わたしたちは誰しもが、わたしはこういう人間だという、じぶんで納得できるストーリーでみずからを組み立てています。精神科医のR・D・レインが言ったように、アイデンティティとは、じぶんがじぶんに語って聞かせるストーリーのことです。
人生というのは、ストーリーとしてのアイデンティティをじぶんに向けてたえず語りつづけ、語りなおしていくプロセスだと言える。鷲田清一『語りきれないことー危機と痛みの哲学』(角川書店、2012年)
本質的には「『私とは何か』という問いに答える『自分らしさ』のようなもの」とおなじだけれど、それを「ストーリー(物語)」という角度から照射している。
冒頭にあげた、いきものがかりの曲「アイデンティティ」には、「わたしは今 わたしは今 夢中で生きていくんだ」と歌われたあとに、つぎのようにつづくところがある。「闘って闘って かわりのない ものがたりを この手でつくりつづける こころよ自由になれ」。
この歌の「わたし」は、「ものがたり」をつくりづける主体として生きている。「個」としての生きかたを探求しつづける「わたし」である。
河合隼雄(1928ー2007)がかつて語っていたように、標準的な物語をおいかけるのではなく、「個人の物語」を構築していかなければいけない時代に、ぼくたちはいる。歌の「わたし」は、どの方向にだとか、どのようにものがたりをつくるかは語らない。でも、「こころよ自由になれ」と、自由になりきれていないこころをひらこうとしている。
1970年代の青年たちを捉えた主題(「アイデンティティ」)が、今も、青年たちを捉えている。そこにはかわりない切望があるのだろうか、あるいはどこか違ったかたちで青年たちをとらえているのだろうか。