香港の天気予報・警報「通知」が届けられるなかで。- 便利さと喪われた感覚のはざま。 / by Jun Nakajima

ここ香港の4月は「こんなに暑かっただろうか」と、これまでの10年以上にわたる香港経験の記憶アーカイブを検索してしまうほどに暑い日が続いている。今日は一休みといった感じで曇り空がひろがり、午後から雷が鳴ったり、雨が香港の大地にふりそそいだ。

午後にさしかかったあたりから大気が不安定になってきて、香港の天気予報・警報の「通知(Notification)」が、スマートフォンを通じてひっきりなしにやってくる。降雨の知らせ、雷警報や豪雨警報の通知など、気象庁にあたる香港天文台(Hong Kong Observatory)のアプリから、通知が届くのだ。もちろん、自分で「設定」しているから、届くわけなのだが。

ずいぶんと便利になったものだ。そんなふうにも思う。

香港に来たころ、10年ほど前には、スマートフォンは普及しておらず、豪雨警報・台風警報を届けてくれる有料サービスが一般の会社が提供していたりしたものだ。それが、今ではスマートフォンのアプリで、香港天文台から直接に、無料で通知が来る。通知の種類も豊富である。


通知を受け取りながら、こんなに便利になったんだと思いつつ、昔はこんな通知がなくてもなにごともなく暮らしていたなぁと思う。

ぼくの記憶は、香港生活を超えて、ぼくが小さい子供だったころにたどりつく。とくに困った記憶もない。困った記憶は忘れられたりするものだから、今のぼくには憶い出せないだけかもしれないけれど、それにしても、大変だった記憶がまったくわいてこないのだ。

ぼくの感覚的な記憶からわいてきたのは、むしろ、そのときの<自然への感度>のようなものだ。空の様子を見て、雲をみやり、空気感を感じる。そんなふうにしてぼくが自分自身で得る「予報」が、あたっていた/あたっていなかったということが大切なのではなく、ぼくなりに<自然に対する感度>を駆使していたことが憶い出されるのである。


原生的な人類は、信じられないほどの視覚や聴覚などの感覚器官を駆使して暮らしていただろう。そのような感覚器は、文明の発展のなかで、テクノロジーにとって代わられてゆく。視覚や聴覚などの感覚器官の、いわば「拡大された感覚器」である。

それら感覚器官の「機能」ということに焦点をしぼれば、テクノロジーがはるかなちからをもって、機能を「拡大」してくれる。テレビやスマートフォンなどを通じて、現代人は、自分たちの感覚器官を退化させても、原生的な人類が想像もしなかったほどの視覚や聴覚を手にしている。

テクノロジーの「光」の大きさを確認しながらも、それらの「闇」へも視界はひらかれなければならない。


真木悠介(社会学者)は、次のような見方を、ぼくたちに提示してくれている。


 …けれどもこのような視野や聴覚の退化ということを、われわれをとりまく自然や宇宙にたいして、あるいは人間相互にたいして、われわれが喪ってきた多くの感覚の、氷山の一角かもしれないと考えてみることもできる。
 たとえばランダムに散乱する星の群れから、天空いっぱいにくっきりと構造化された星座と、その彩なす物語とを展開する古代の人びとの感性と理性は、どのような明晰さの諸次元をもっていたのか。

真木悠介『気流の鳴る音』(ちくま学芸文庫)


真木悠介のことばが、空の様子を見て、雲をみやり、空気感を感じながら自然と生きていたぼくと共振しながら、今を生きるぼくに語りかける。