日々のなかで、ぼくたちはさまざまな場所で、さまざまな人たちに出会い、いろいろな状況に出くわす。親切や好意を受けることもあれば、文句を言われたり、ぞんざいに扱われることもあるかもしれない。
文句を言われたり、ぞんざいに自分が扱われるとき、その人に対して怒りがわいたり、いらだったりする。誰しもがよく扱われたいものである。
でも、そんなふうに嫌な場面に遭遇するとき、その人(たち)が「自分に協力してくれている」と、考えてみること。これは、自分や自分が望むものをきりひらいてゆくための方法のひとつである。
ブラジル人作家パウロ・コエーリョの作品に、『アルケミスト』(角川文庫ソフィア、1997年、山川紘矢・山川亜希子訳)というベストセラーがある。ぼくも、昔からとても好きな本である。原作は1988年にブラジルで発刊され、そののち、この作品は時空をはるかに超えて、世界中で今でも読み継がれている。
主人公は、羊飼いの少年サンチャゴ。サンチャゴは、宝物が隠されているという夢を信じ、アンダルシアの平原から、エジプトのピラミッドに向けて旅にでる。この旅では、本のタイトルにあるように、「アルケミスト=錬金術師」が、サンチャゴの壮大な旅の物語において大切な役を担い、少年の旅を導いていく。
そんな『アルケミスト』のなかに、つぎのような箇所がある。
「人が本当に何かを望む時、全宇宙が協力して、夢を実現するのを助けるのだ」と錬金術師は言った。…少年は理解した。自分の運命に向かうために、もう一人の人物が助けに現れたのだった。
「それで、あなたは僕に何か教えてくださるのですね」
「いや、おまえはすでに必要なことはすべて知っている。わしはおまえをおまえの宝物の方向に向けさせようとするだけだ」パウロ・コエーリョ『アルケミスト』(角川文庫ソフィア、1997年、山川紘矢・山川亜希子訳)
「人が本当に何かを望む時、全宇宙が協力して、夢を実現するのを助けるのだ」。錬金術師が少年サンチャゴに語るこの言葉は、よく引用される言葉である(ぼくも好きな言葉である)。
ぼくたちが「本当に何かを望む」とき、周りの人やものごとが、夢の実現を助けてくれる。ぼくもそう思う。けれども、ぼくは「本当に何かを望むとき」という箇所をいったん外してしまっても、全宇宙が協力してくれている、と、言うことができると思う。
「本当に何かを望む」という言い方は、望みを明確に意識している状態を想像させるのだけれど、人は明確に意識しなくても、それぞれに「物語」を生きている。「物語」はじぶんで選びとった物語ということもあれば、そうではないこともある。あるいは、他者たちが生きてきた「物語」であることもあれば、「自分の物語」をつくりだしていることもある。
いずれにしろ、人はそれぞれに「物語」を生きていて、その物語に沿う形で「全宇宙が協力」しているのだと、考えてみる。たとえば、文句をぶつけてくる人も、その自分が生きる「物語」のなかで、なんらかの「役割」を担っているのだと、考えてみることができる。
自分の「物語」が展開してゆくなかで、それは「大切なシーン」であるかもしれない。そこで、自分は「何か」に気づく場面であるかもしれないし、その場面をきっかけに自分が「変わる」ことになるかもしれない。
「そんなこと言われても、文句を言われたら腹がたつ」と思われるかもしれない。
それはひとまず仕方のないことである。でも、「腹がたつ」のあとの自分の言動については、自分で選ぶことができる。そこで、立ち止まって考えてみることができる。誰もが、自分に協力してくれている、あるいは、自分の「物語」で役を演じてくれている。
そんなふうに考えてみるとき、「本当に何かを望む」ものごとがなくても、自分のなかで何か気づくことがあるかもしれない。「自分に協力してくれている」とするならば、どんなことで、どんなふうに協力してくれているのか。そんな「気づき」があるかもしれない。
少なくとも、こんなふうに考えてみることで、自分が生きる「世界」は、異なって見えると思う。