香港のスーパーマーケットで「セルフチェックアウト」を活用しながら。- 「気楽さ」のなかに垣間見える世界。 / by Jun Nakajima

ここ香港のスーパーマーケットなどにおける「Self-service Checkout」(セルフチェックアウト)の支払い、またはファーストフードなどにおけるセルフオーダーなどが浸透しはじめ、それなりに日常化している。

「それなりに」と書いたのは、とは言いつつも、店員さんがいるキャッシャーを選ぶ人たちが結構多いように見受けられるからだ。

香港のキャッシャーは圧倒的にスピードが速いからからもしれないし、これまでの仕方に慣れていて慣れているのを好むのかもしれないし、あるいは、セルフチェックアウトやセルフオーダーの「使い方を覚える」ための一歩を踏み出さないということかもしれない。

ぼくはやはり試してみたくなるので、早々に使ってみて、使い方を覚え、それなりに利用している。慣れてしまうと便利だし、キャッシャーの列に並ばなくてもよくなる。


誰も並んでいない店員さんのとこと、(誰も並んでいない)セルフチェックアウトとがあるとして、ぼくはどっちへ行くだろうかと考えると、購入する品物が少なくて、バーコードが付いている商品だけであれば、セルフチェックアウトを選ぶように思う。

どこかで「気楽さ」があるのだろう。香港のサービスは「速さ」を最優先にするところがあって、それは圧倒的にすばらしいのだけれど、他の側面において自分が求めているようなサービスを受けられないことがある(香港に限ったことではないのだけれど)。だから、自分でやるほうが「気楽さ」を感じる、ということだろうか。

そんな「気楽さ」のことを考えたり、感じたりするとき、真木悠介(社会学者)のつぎのことばが、ぼくのなかで灯りをともす。


 自動販売機の買い物がいちばん気楽でいい、という世代が日本にもあらわれはじめたという。時間がコストにすぎない世界はプロセスの意味(センス)を脱色し、出会いの能力を退縮させてゆくだろう。
 時間の意識が他者感覚に干渉するのだ。…

真木悠介「狂気としての近代」『旅のノートから』(岩波書店、1994年)


メキシコでの生活を体験した真木悠介が、メキシコと日本の「時間」に照明をあてて書いた「時間の比較社会学」である。ぼくがこの本を読んだのは2000年前後のことだけれども、この文章が発表されたのは1978年のことだ。

ぼくが生まれたころに、「自動販売機の買い物がいちばん気楽でいい」という世代がすでに日本にあらわれていたのだという。

それはそのあとの世代を生きてきたぼくのなかにも埋め込まれているという地点から、自分が感じる「気楽さ」のなかにその一端を垣間見せる現代世界のありかたを、ぼくは見ようとしてきたのである。


西アフリカのシエラレオネ、東ティモールに住んでいたときは「自動販売機」はなかったから(少なくともぼくの生活圏にはなかった)、何かを購入する際にはいつだって「誰か」とコミュニケーションを取っていた。そこに人がいるからといって、自動的にコミュニケーション力や「出会いの能力」が上がるわけでは必ずしもないのだけれど、ぼくが出会う人たちの存在感に助けられて、そこには、「人と人」のコミュニケーション/出会いがあったように思う。

香港では「自動販売機」の利用は一般的ではないけれど、時代が経過するなかで、セルフチェックアウトなどのシステムが導入され、それが「気楽でいい」と思うところもある。便利になればいいなぁとも思ったりする。

けれども、すべてのやりとりが「セルフ」になってしまったら、それは「つまらない」だろうと思う。人とのあいだに起こる不快さもなくなるだろうけれど、そのプロセスで起こるかもしれない楽しさや歓びなどもなくしてしまうだろう。

今日も笑顔と絶妙のセールストークで話しかけてくれ、それから帰り際にも笑顔とサンキューを伝えてくれる店員さんに出会うことができた。日々のなんでもないことだけれど、楽しいひとときであった。出会いは、そんなひとときをつくってくれることがある。


ところで、香港のスーパーマーケットのセルフチェックアウトは、実際はとても賑やかだったりする。使い慣れていない人たちはスタンバイしている店員さんとやりとりするし、近くのセキュリティガードの方が使い方を教えてくれたり、声をかけてくれたりするのだ。

ことばのリズムと会話のやりとりからエネルギーが生成される香港ならではかもしれない。