かつて「使われなかった紙幣と硬貨」を使う。- 時空を超える香港の紙幣と硬貨。 / by Jun Nakajima

海外のいろいろな場所を行き来してきて、いろいろな紙幣と硬貨がたまってしまっている。そんな紙幣と硬貨を整頓していたら、香港の紙幣と硬貨が出てきた。まさかそこに香港の紙幣と硬貨があるとは思っていなかったから、少しびっくりする。

びっくりしたと言っても、これまで行ったこともないところの、使ったこともない紙幣や硬貨がおさめられていたわけではない。そうではもちろんないけれど、それらは、ぼくが初めて香港を旅したときに使われなかった紙幣と硬貨である。

初めての香港の旅は1995年で、24年まえのことである。ぼくはそのとき、大学2年生であった。

1995年の旅で使われなかった紙幣と硬貨は、それからそのとき住んでいた日本(東京)へと行き、そこでだいぶ長い時間を過ごしたあと、2007年以降、ぼくが香港に移り住むようになってから、ここ香港に戻ってきたことになる。

ずいぶんと、長い時間と広い空間をこえて、ふたたびその生地に戻ってきたわけだ。そのあいだに、時代も、香港も、ずいぶんと変わったものだ。


それにしても、そんなふうに「旅」してきた紙幣と硬貨を手にしてみると、なんだか不思議な感じがするものだ(でも、こんなことを不思議に感じるのは人間だけだろう)。思い出のモノに触れるとタイムスリップしてしまうような話を映画やドラマで観ることがあるけれど、そのような話を創ってきた人たちが「素材」としたであろう体験と同じような体験であるかもしれない。

自分の体験の記憶はときにあやふやに感じられる。思い出のモノは、そんな記憶に対して確証を与える(かのようだ)。使われなかった香港の紙幣と硬貨は、ぼくが確かに、ここ香港に来たことを確証してくれる。でも、そんな確証はなんのために、とも思う。大切なことは、「今」をどのように生きているのか、ということ。

使われなかった紙幣と硬貨は、当初、「いつかまたきたい」という希望や予測のもとに残されていたものだろう。その場所を去るまで、もしかしたら必要になるかもしれない、と思って、少し残されていたものだろう。でも、その「いつか」や「万が一」はやってこない。それらがやってきたときは、そのときはそのときでやりくりすればいい、ということ。

モノへの執着を減らしてゆくこと(他方でモノを大切にしてゆくこと)をこの数年で試みてきて、うまくいった部分もあれば、うまくいかない部分もまだある。けれども、大切なのは「今」をどう生きるかということ。このことに光をあてながら、少しずつだけれど、シフトしてきている。「過去」を大切にしないわけではない。「今」を大切にすることで、「過去」に光があてられるということ。


こんなことを思っていると、ぼくのなかで、「何か」の流れをストップさせていたのかもしれない、という想念が浮かぶ。「お金」は社会の血液のようなもので、流れをとめてはいけない。「お金」がその役割を十分に果たせるようにしてあげなければいけない。

すぐさま、ぼくは、これらの紙幣と硬貨を財布に入れて、使うことにした。そして、そのうちのいくらかは、翌日、実際に使われたのであった。