世界のそれぞれの場所に、それぞれに特有の<音の風景>がある。目で見る風景でありながら、日常をかたちづくるような音たち。ここ香港であれば、香港の独特の喧騒の音たちのひとつとして、「建設」の音が挙げられるであろう。
だいたいどこに行っても、香港のどこかで、建設がすすめられている。
道路や橋や鉄道、ビルなどはもとより、ショッピングモール内での店舗づくりや改装、さらにはマンションの部屋のリフォームまで。香港はどこに行っても、建設の音に満ちている。そんな音たちが、休むことなく「転がる香港」(@星野博美)の背景となり、あるいはそんな香港を音として支えている。
ぼくの住まいの周りも、いつだって、なんらかの「建設」がすすんでいる。建設マシーンが作動する音、大きなハンマーで打ち叩く音、ときに建設現場にひびく人々のかけ声。そんな音たちが、いつだって、鳴り響いている。
これだけ、いろいろなところで建設が間断なくつづく風景も、なかなか珍しいものかもしれない。
日本にいるときも、ニュージーランドにいるときも、このような<音の風景>にはひたされなかった。アジアを旅しているときは、建設ラッシュなどにも遭遇し、アジアの発展を体感することもあったけれど、香港のような先進産業地域において、いたるところに建設の音の風景がひろがっていることに、ときおり圧倒されるのである。さらに、そこに香港の「速さ」がつけ加わるから、躍動感と喧騒がいっそう生まれてゆく。
旅で香港に来る時にも、街中のビル群に竹竿で組まれた建設現場に遭遇することはある。けれども、建設のひろがりと持続度においては、やはり、香港でそれなりの期間を過ごさないとわからないかもしれないと、ぼくは思う。
香港で過ごすなかで、通りを歩くとき、交通機関を利用するとき、ショッピングモールを利用するとき、家に住んでいるときそれぞれに、建設の風景と現実が住む人たちの生活に影響してくるからである。それはもちろん、香港の<音の風景>として、住む人たちの心身に登録されるだろう。
それにしても、このような<音の風景>は、ぼくの心身にどのように登録され、どのように影響を与えているのだろうか。
そんな建設の<音の風景>も、公休日(日曜日、祝日)には束の間の空白を得る(※香港では重機による建設仕事は19時から7時まで、また公休日については禁止されている)。
明日は、そんな束の間の静寂の日曜日である。でも、街の中は、いっそう人びとの声であふれる日でもある。