「ことば」がむつかしい時代に。- 「ことば」を取り戻すために採用する「二段階の方法」+「もう一段階」。 / by Jun Nakajima

「ことば」がむつかしい時代である。1990年代、10代から20代をかけぬけたぼくは、地に足のついた「ことば」を求めていたけれど、それから時代が変遷してゆくなかで、「ことば」がほんとうにむつかしい時代になっていると思う。

「ことば」はもともと生を裏切るものだという根底的な「ことば」のむつかしさもあるけれど、それよりももっと日々の「ことば」の次元において、「ことば」は<虚構性>をそのうちに増殖させながら、それらを聞く人や語る人のなかにひろがり、浮遊してゆく。

そんな浮遊する「ことば」がいつしか(内的であろうが外的であろうが)「自分が語ることば」となる。虚構性を増殖させた「ことば」は、それを吸収し培養させた個人たちのなかで、彼・彼女を混乱させ、矛盾のなかに投げ込み、なにがほんとうなのかをわからなくさせる。

「ことば」がむつかしい時代である。


1990年代のぼくを振り返ると(結果的に見ると、ということだけれど)、「ことば」を取り戻してゆくために、ぼくは「二段階の方法」を採用していたようだ。この方法を支えていたのは、海外(日本の外)への一人旅であった。

方法の一段階目は、日々の「ことば」の洪水から、いったん<外>に抜け出ることである。海外への一人旅は、この<外>へ、ということにおいてきわめて効果的であった。毎日当たり前のように聞いて、読んで、話している「日本語の世界」から抜け出ることで、いったん洪水をせきとめるのである。

方法の二段階目は、「身体」を使うなかで(身体性を取り戻しながら)「ことば」を取り戻してゆくこと。もちろん、誰だって「身体」は毎日使っているのだけれど、ここでは、実際に行動しながら、世界を歩きながら、自分の「身体」で体験しながら、自分の「ことば」を取り戻してゆくことを指している。

アジアを旅しながら、ニュージーランドに住み、ニュージーランドをじぶんの身体で歩きながら、ぼくは地に足のついた「ことば」を取り戻そうとしていた。振り返って見てみると、そんな側面が見えてくる。

採用した「二段階の方法」によって、うまくいったところもあれば、うまくいかなかったところもある。でも、少しでもうまくいったこと、つまり「ことば」を取り戻したという感覚を少しでも得た経験は、ぼくにとってはとても貴重であった。

ぼくの心身に、迷ったときの道しるべとなるような杭が打たれたように思う。


あれから時代がすすみ、経済的なグローバル化が完遂し、情報技術テクノロジーの発展のなかでSNSなどが現れ、どこに行っても、虚構性に満ちた「ことば」の洪水にさらされる。「ことば」がずいぶんとむつかしい時代だ。

だからかもしれない、と、ぼくは思いつく。

1910年代から1920年代に生まれた著者たちの「ことば」に最近惹かれてやまないのは、彼ら・彼女たちが「ほんとうのことば」を求めてきた世代であったから/あるからかもしれない、と。浮遊する「ことば」ではなく、地に足をつけながら、同時に飛翔しようとする<ことば>を紡ごうとする世代。

「方法の三段階目」として、このような方法を付け加えることができるかもしれない。