「ただ生きる」ということ。- 生きるために生きること。 / by Jun Nakajima

「ただ生きる」、ということ、そのむつかしさについて、真木悠介(社会学者)が書いている。

なんのために生きているんだろう、という問いは、じぶんが生きるという「物語」のどこかで、ひとそれぞれに違った仕方でおとずれる。そんな問いをふつふつと内面で燃やしていたころに、ぼくはこの文章に出会った。

詩人の山尾三省(1938-2001)の本、『自己への旅』(聖文社、1988年)の「序」として書かれた文章(「伝言」)で、その後、真木悠介のとても美しい著作『旅のノートから』(岩波書店、1994年)に収録された。


真木悠介がはじめて屋久島にわたり、山尾三省の仕事場に泊まったときのことが書かれている。

ある晩に、『自己への旅』の本にも登場する神宮君がやってきて、「オキナワに絶対に行く、そこで漁師をするんだ」とくりかえし語っていたことにふれながら、翌朝、山尾三省と向き合っているとき、「神宮君はどうしてオキナワに行くのかな」と半分ひとりごとのように真木悠介が言ったところで、こんな応答があったのだという。真木悠介はつぎのように書いている。


「神宮君は、ふつうに生きる、ことをしたいのね。ただ生きる、ということを、したいのよね」
 水屋の方から、順子さんの声がした。
 わたしはどこかで、よくわかった、という気がした。ただ生きる、ということをしたい。
 するともういちど、わからなくなった。ただ生きる、とは、どう生きることか? ふつうに生きる、とは、じっさいに、どういうことか? 三省も順子さんも、神宮君も、ただ生きること、ふつうに生きる、ということを求めて、屋久島に来たのだと思う。
 ふつうに生きる、ことのむつかしさ。今の世の中で、ただ生きる、ということの、むつかしさ。
 …

真木悠介『旅のノートから』(岩波書店、1994年)


「ただ生きる」ということをする。確かに「わかる」ようで、わからない。

「ただ生きる」ということは、なんとなく生きていくというのではなく、<生きる>ということの経験のひとつひとつを味わい、経験しつくしてゆく生きかたである。呼吸をすること、食べること、家族や友人と話をすること、身体を動かすこと、このようななんでもないことを味わいながら生きること。

映画やドラマで「人間ではない存在」(たとえばエンジェル)が<人間になる>というストーリーが描かれることがある。それは、<人として生きる>ということはどういう経験であるかを逆照射させる視点だ。人間ではない存在が人として「ただ生きる」ことのひとつひとつのなかに、人でなければ経験できないものごとを鮮烈に体験してゆく。ひとつひとつの出来事がまるで奇跡のように体験される。


ところで、「なんのために生きているのか」という問いは、生きることの「意味」への渇望である。生きていることに「意味」を与えてくれる「目的」への指向性である。ぼくたちは、目標や目的、意義や意味によって、日々の生を賦活することができる。

けれども、より思考を深めてゆくと、人は「生きるために生きている」のだということへといきつく。ぼくはそう思う。

「なんのために生きているのか」という切実な問いは、<生きる>という経験が(そのひとつが、それらのいくつかが、あるいはほとんどが)、なんらかの事情で、損なわれていることからくるものでもある。

真木悠介がふれている、今の世の中で「ただ生きる」ということのむつかしさは、こんなところとも関連していると思う。それにしても、今の世の中、「ただ生きる」ということは、確かにむつかしい。

ただ生きること。生きるために生きること。そんな地点から、じぶんの「生きる」を眺め返してみると、異なった風景が見えてくる。