「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」(村上春樹)ということば。- 修辞ではなく、ほんとうに夢を見るために。 / by Jun Nakajima

『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』。小説家村上春樹のインタビュー(1997年から2009年)を集めた本のタイトルである。「あとがき」で、直接に本のタイトルにふれられているわけではなく、またインタビュー集の企画は編集者の方による強い提案によって実現したものだから、もしかしたら、編集者の方などが提案したタイトルかもしれない。

ただ、「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」ということばは、2003年にフランスで行われた雑誌のインタビュー(聞き手:ミン・トラン・ユイ)のなかで、語られたものである。


…作家にとって書くことは、ちょうど、目覚めながら夢見るようなものです。それは、論理をいつも介入させられるとはかぎらない。法外な経験なんです。夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです。

村上春樹「書くことは、ちょうど、目覚めながら夢見るようなもの」『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』所収(文藝春秋、2010年)


とても素敵な本のタイトルであるとぼくは思うし、とても印象に残ることばである。


ところで、「ぼくは夢というのもぜんぜん見ないのですが…」と、村上春樹は心理学者の河合隼雄(1928ー2007)に語っている(『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』新潮文庫)。

河合隼雄は、夢を見ないのは「小説を書いているから」だと、村上春樹に応答している。とりわけ物語の世界に深く入って物語を書いているようなときは「現実生活と物語を書くことが完全にパラレルにある」のだから、夢を見る必要がないのだという。ちなみに、詩人の谷川俊太郎も夢を見ないのだと、河合隼雄は語っている。

このような見方に照らして見ると、「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」という言明はたんなる修辞というわけではなく、村上春樹にとっては「書くこと=夢を見ること」である。


さらに見る角度をかえてゆくと、「夢を見るために毎朝僕は目覚める」ことは「書くこと」にかぎられることではない。人が生きる、ということは、ひとりひとりが思い描く<夢>を生きていることにほかならない。<夢>とは、人が自身に語る「物語」である。

そのようにして、人は誰しもが、<夢>を見るために、毎朝目覚めているのである。どんな人も、<夢>の外に出ることはできない。できることは、どんな<夢>を見るのか、という選択である。

このような見方に照らすと、「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」という言明はたんなる修辞ではなく、「人が生きること=夢を見ること」という側面を正面から語ることばである。「夢から醒めるために目覚める」のではなく、「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」と、村上春樹は、正しい仕方でことばを転回させているのだということができる。