「グローバル」という言葉。グローバリゼーションがあたりまえのように日々語られるようになっていた2004年のインタビューで、この言葉が「あまりぴんとこない」と、小説家の村上春樹は語っている。
僕は僕の心の中に深く暗い豊かな世界を抱えているし、あなたもまたあなたの心の中に深く暗い豊かな世界を抱えている。そういう意味合いにおいては、…我々は場所とは関係なく同質のものを、それぞれに抱えていることになります。そしてその同質さをずっと深い場所まで、注意深くたどっていけば、我々は共通の場所にー物語という場所にー住んでいることがわかります。
…
グローバルという言葉は、僕にはあまりぴんとこない。なぜなら我々はとくにグローバルである必要なんてないからです。我々は既に同質性を持っているし、物語というチャンネルを通せば、それでもうじゅうぶんであるような気がするんです。村上春樹『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』(文藝春秋、2010年)
グローバリゼーションとはひとまず資本主義の運動として、経済的に世界を「つなげる」ということであり、外部に存在する客観的で異質なものをを同質に変えていくことであるということを考えると、村上春樹が語る「同質性」は、グローバリゼーションとちょうど反対の方向へとまなざされ、人それぞれの「基層」にすでに存在し、そこで「すでにつながっている」ものである。
だから「ぴんとこない」。けれどもグローバリゼーションの事情はわかるから「あまりぴんとこない」のであろう。
人と人との<つながり>のありかを、人それぞれの深いところ、ずっと深くの基層に見出す見方は、世界それぞれの土着の文化が深い基層で呼応しあっている(呼応しあってきた)様を、思い起こさせる。
「近代市民社会」は、標準化する力で「土着」を解体し、この標準化し均質化する力で「つなげる」同質性をひろげてゆく。「土着」が解体されてきたように、人それぞれに内在する<土着>も解体の力にさらされてきたのかもしれない。
けれども、人それぞれに内在する<土着>は、解体されたように見えても、解体されつくすことはない。人はだれもが「心の中に深く暗い豊かな世界を抱えている」のである。その深く暗い豊かな世界は、それを無視しようとすればするほどに、その世界からの「メッセンジャー」が幾度となく、現実の世界へとやってくることになる。
「自分を掘り下げてゆく」という仕方について村上春樹が語っているところを、別のインタビューからひろっておきたい。
…書くことによって、多数の地層からなる地面を掘り下げているんです。僕はいつでも、もっと深くまで行きたい。ある人たちは、それはあまりにも個人的な試みだと言います。僕はそうは思いません。この深みに達することができれば、みんなと共通の基層に触れ、読者と交流することができるんですから。つながりが生まれるんです。もし十分遠くまで行かないとしたら、何も起こらないでしょうね。
村上春樹『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』(文藝春秋、2010年)
「グローバリゼーションとは、無限に拡大しつづける一つの文明が、最終の有限性と出会う場所である」(見田宗介)ということは、この地球の環境・資源の有限性に真正面から出会うということである。この地球の「マテリアル」は有限である。「目に見えているもの」は有限である。
けれども、人それぞれの想像力、あるいは自分を掘り下げてゆくことで、とても深い場所に見つける共通の場所(「物語」の場所)は無限である。<目に見えないもの>はどこまでも、自由に、拡大してゆくことができる。
村上春樹の試みは、そのような、とても深い場所を掘り起こしてゆく試みである。最終の有限性と出会う場所としての「グローバリゼーション」ではなく、心の中に抱えている深く暗い豊かなの世界の無限性に出会う場所としての<グローバリゼーション>である。