ファーストフードや大衆食堂などで、食べたあとに食器トレーを返却口に返却する、という動作が身体にしみついていると、同じような状況において「返却しない」ということに引け目のような気持ちを感じる(ことがある)。
たとえば、マクドナルドを想像してみるとわかりやすい。日本のマクドナルドで「返却する」ことを「あたりまえ」のようにしてきた身体が、海外のマクドナルドに立ち寄って「返却しない」ことが「あたりまえ」の状況におかれる。返却せずに、食べたあとのトレーをテーブルに残したままに席を立つ。
それらを片付けてくれる店員さんがいて、トレーを片付けてくれるのはわかっているのだけれども(そしてその「仕事」があるから店員さんはそこでの仕事を確保できるのだということもわかっているのだけれども)、じぶんの心身は「じぶんで返却する」意思が働く。でも、その意思をおさえて、その場その場の仕方にあわせて、テーブルのうえにトレーを残したままにするのだ。
そんな経験を海外に出るようになった最初のころだけでなく、ぼくは今でもする。「じぶんで返却する」意思がじぶんのなかで作動しはじめるのを感じることがあるのである。
「返却口」がまったくないようなところであれば返却はできないので、まったく気にはしないのだけれど、マクドナルドのように、トレーを返却する場(でも返却を求められているわけではない場)が設置されていると、頭ではわかっていても、「じぶんで返却する」モードが作動しはじめることがある。
返却がもとめられていれば、わかりやすい。そして、わかりやすいだけでなく、ぼくのなかで作動しはじめる「じぶんで返却する」モードは、それが作動する機会を得ることで落ちつくのでだ。
ここ香港でも日系のファーストフード(たとえばモスバーガー)や大衆食堂などでは「返却口」が設けられ、テーブルなどに「返却をもとめる」表示がされていたりする。でも、このシステムは「一般的」ではないから、なかなか浸透していかない。よい・わるいではなく、仕組みの違いである。
こんな具合であるのだけれど、面白い体験をした。ある大衆食堂のようなところ(日本の料理を提供する「日式」の大衆食堂)で食事を終えて、トレーを返却口に戻すように表示があるから、ぼくはトレーを返却口に戻した。返却口付近の店員さんが、笑顔で、そのトレーを受け取ってくれる。「ありがとうございます」と、ぼくに広東語で伝えながら。
ぼくも「ありがとうございます」と応答して、席にもどる。荷物をとってお店を去ろうしたところ、先ほどトレーを手渡した店員さんがやってきて、笑顔で話しながら、ぼくに「クーポン」を手渡してくれたのだ。
どうやら、「トレーを返却した」ことに対する御礼として、返却御礼としての「クーポン」である。クーポンにはそのように記載されている。「多謝您支持自助回収…/THANK YOU FOR RETURNING YOUR TRAY」というように。トレー返却への感謝としての「クーポン」を受け取ったのは、はじめてであったし、その発想にびっくりしてしまった。
再度笑顔で応答し、面白い体験の余韻を感じながら、ぼくはお店をあとにした。
そんなこんなで、ぼくはトレーの返却について考えさせられ、書いている。日本にいたときは「あたりまえ」であったことが、こうして「あたりまえ」ではないものとして日々体験される。