自然と他者との「存在」だけを必要としている。- マテリアルな消費に依存している幸福の彼方へ。 / by Jun Nakajima

じぶんと<モノとの関係性>を見直しているなかで、歓びに充ちた生を生きているためには、それほどモノを必要としてはいないのだということを感じる。

もちろん、情報テクノロジーの発展によるところも大きい。本もCDもDVDも、つまり書物も音楽も映画・ドラマもデジタルになったことは大きい。でも、それでも、生きることのぜんたいを見渡しながら、歓びに充ちた生のためにはそれほど(この何十年かのあいだに、ぼくも含めた人びとが消費してきたほど)「モノ」は必要ないと、ぼくは思う。


見田宗介(社会学者)が現代の「情報化・消費化社会」をひらいてゆく論理と思想を根源的(ラディカル)に展開した名著『現代社会の理論』(岩波新書、1996年)。その終わりのほうに、つぎのように書かれている。


 われわれの情報と消費の社会は、ほんとうに生産の彼方にあるもの、マテリアルな消費に依存する幸福の彼方にあるものを、不羈の仕方で追求するなら、それはこれほどに多くの外部を(他者と自然とを)、収奪し解体することを必要としてはいないのだということを見出すはずである。

見田宗介『現代社会の理論』(岩波新書、1996年)


ここでの「外部」の収奪と解体、つまり他者と自然の収奪と解体ということは、貧困の問題、それから環境・資源問題などを視野におさめている。これら「情報化・消費化社会」の<闇>を克服してゆくことの方向性と根拠を、説得力のある仕方で、また肯定的な仕方で、見田宗介は論じている。

ただ<闇>をこえてゆくためには、「ほんとうに生産の彼方にあるもの、マテリアルな消費に依存する幸福の彼方にあるものを、不羈の仕方で追求するなら」という条件がつけられている。でも、その方向性には必ず道がひらかれる。

これらの論点だけでなく、これまで生きてきた経験、またマテリアルな<モノとの関係性>を問いなおしてきた経験から、ぼくたちは「それほどに多くの外部を、収奪し解体することを必要としてはいない」のだということを、ぼくは実感している。


うえの文章につづけて、見田宗介は書いている。


…ほんとうはこのような自然と他者との、存在だけを不可欠のものとして必要としていることを、他者が他者であり、自然が自然であるという仕方で存在することだけを必要としているのだということを、見出すはずである。

見田宗介『現代社会の理論』(岩波新書、1996年)


<自然と他者の存在>だけを必要としていること。「必要」ということでふつう考えてしまうように、なにかの「ため」の、自然や他者ではない。そうではなく、自然や他者が<存在>していることだけを、ほんとうは必要としていること。

ひとの歓びや欲望などを追求してゆくと、ぼくたちはそのような実感につつまれる場におしだされるように思う。あるいは、あるとき、突如の出来事が、これまでと違った仕方で「世界」を見せるなかで、そんなことを深い実感で感じるかもしれない。

「ほんとうはこのような自然と他者との、存在だけを不可欠のものとして必要としていることを、他者が他者であり、自然が自然であるという仕方で存在することだけを必要としているのだということ」。

それにしても、すきとおるようなことばである。