香港のレストランや大衆食堂はほんとうにさまざまにあり、その探索は尽きることがない。
ところが、尽きることがないほどありながら、じぶんにとっての好みや基準に合うところでいつも行きたいようなところは尽きるほどあるわけではない。なお、ここでいう好みや基準というのは、メニューやおいしさに加え、サービスレベルや価格の手頃さ、また場所の便利さなども含まれる。
だから、いったん好みや基準に合うレストランや大衆食堂を見つけると、結構集中して足を運ぶことになる。週のスケジュールに組み込まれたり、ときには週に数回行くこともある。まさに「通う」というほどである。
こんなときは、なにか好きなメニューがあったりして、それを集中的に注文したりするのだけれど、ときには他のメニューを試してみたりする。けれども、やはりもともとそのメニューがあるから通うようになったというものに戻ってくることになる。
もちろん、他のメニューを「試す」なかで、定番になるものもある。あるレストランのランチセットで試した「蒸し魚定食」はあまりにもおいしくて、いつのまにか定番になった。
なにはともあれ、こんな具合に「通う」ことをつづけていると、お店の方々との距離が近づくことになる。
この「距離」は、実際の距離も、またその距離のあり方も、店員さんごとに異なったりする。ある店員さんは話しかけてくれるようになったり、また、ある店員さんはオーダーやお願い事を覚えていたりしてくれる。売り切れになりやすい「蒸し魚」がまだあることを伝えてくれたり、あるいは「いつもの取り皿」が必要かどうかを尋ねてくれる。といった具合だ。そうではなくても、何らかの仕方で気にかけてくれるような店員さんもいる。
べつにそうしてもらいたくて通っているわけではないのだけれど、集中して通っているうちにそうなってゆき、さらには店員さんとの距離が通いたくなるような親密さを形成して、ますますぼくは足を運ぶことになる。
こんな状況にあって途中で何らかの事情があって行かないようになり、でも久しぶりに行くと、「どうかしたの」とでもいうような言葉や表情を投げかけてくれる、ということにもなる。逆に、ぼくも、店員さんの元気な姿にうれしくなる。
こんなさまざまな具合の、色合いの関係性が、ぼくの香港の「日常」をかたちづくっている。
香港で、ぼくは、そんな関係性も楽しんでいる。