ぼくの内面からとりだされた「原石」。ー 外出をひかえて「Concept」ページを書く。 / by Jun Nakajima

 しばらくブログに文章をアップしていなかったのだけれど、いまこうして、ブログの文章を書き始めています。前回アップしたのは、2019年6月末のことだから、すでに半年以上が経ちました。

 じぶんのサイトでありながら、ひさしぶりに登場するとなると、いったいどのようなことを、どのように書こうかと、迷ってしまうものです。小学生のころ学校を休んで、休み明けにどのように教室に現れるか気にかけた記憶がありますが、ある意味、それと似たところがあります。(どうにも自意識過剰なだけでもありますが、この半年ほどの間に、ぼくの「自意識」は決定的に変容してきたことを付け加えておきます。そのことは別の機会に書きますね)。

 当たりまえですが、この半年ほどの間に、世界ではいろいろなことがありました。ぼくが12年以上住んできた香港も、ご存知のように、いろいろなことがあり、決定的な「変容」を経験せざるをえない状況に直面してきました。

 この間、ぼくもじぶん自身の「変容」のなかに身心をすっぽりと投じていました。ある友人はそんな時期のぼくの写真を見て「憑物がとれた」と表現しましたが、まさにぼくの内なる「ゴースト」が取り除かれたような感覚(映画「ゴーストバスターズ」でゴーストが退治されたっときのような感覚)を、ぼく自身も感じていました。

 外面的な変化をのべておくと、この「変容」の旅路の間に、ぼくは「ミニマリスト」になり、それから「フレキシタリアン(Flexitarian)」(=準菜食主義者)になりました。ぼくの個人的な「持ちもの」はスーツケースほどになり、また、可能な限り「菜食」を楽しむ。そんな変容がぼくにおとずれました。もちろん、突然変異のようにそうなったわけではなく、それまでの小さな試みや思考や願いがずーっとあって、それがかたちとなって結実したわけです。

 そんなふうにして「じぶんの変容」を生きているときに、新型コロナウィルスが現れ、そのとき香港にいたぼくは、刻一刻と変わってゆく社会状況のなかにおかれました。そのときのことはいずれどこかで書こうと思いますが、とにもかくにも、ぼくたち(ぼくと妻)は外出をなるべくひかえ、ぼくはじぶんのホームページの「Concept」ページ(サイト全体をつらぬくコンセプト)の文章を書きました。

 まずはホームページの「Home」の写真をとりかえることからはじめました。「生きる」ということのイメージとして<樹>があったから、この半年の間に撮影した樹のなかから選び、アップロードしました。それから、その樹を見ながら思いついた、<生きる。解き放つ。>ということばをのせてみる。全体テーマとして「これからの<生きかた>を生きる」と書いてみる。そこにこれまでずっと考えてきた「サブテーマ」の三つ、「じぶん」の変容、「異文化」の経験、「人生100年時代」の地平、をおく。そんなふうにして、ホームページ全体をつらぬく、テーマとサブテーマを設定していきました。

 そして、新型コロナウイルス(当時の呼称)の状況を追い、そのための対策をうち、外出をひかえながら、ぼくは「Concept」ページを書いていきました。「これからの<生きかた>を生きる」について、それから、「じぶん」の変容、「異文化」の経験、「人生100年時代」の地平、それぞれについて。

 「Concept」ページのそれぞれを読み返してみて、いまのぼくにとっては納得のいくように書けたように思います。「納得のいく」というのは、うまく書けたとか、過不足なく書けたとか、そういうことではありません。そうではなくて、ぼくが内面で感じ思っていることがらを、ピュアなかたちでとりだすことができた、ということです。とりだした原石はこれから磨いていかなければならないし、磨いた原石にさらにアレンジを加えていかなけれななりませんが、原石をとりだすことができたことで、その先に進めるように、ぼくは感じています。

 そのような「感覚」に導かれながら、ホームページの更新とブログとメルマガのほうを進めていこうと思う地点に、ぼくは到達できたようです。その「到達」は、ぼくを触発し、励まし、支えてくれた、たくさんのひとたちと本の存在に依るところがほとんどです。