<内破する>ということばは、ぼくが好きなことばのひとつである。内側から破ること。
「内破」ということばをはじめて耳にしたのは、2000年に出版された書物『内破する知 身体・言葉・権力を編みなおす』(東京大学出版会)であったと思う。近代知を<内破>し、新たな知の地平をひらくものとして企画された『越境する知』というシリーズの「プレリュード」として出版された書物であった(※表紙に、画家・彫刻家の奈良美智による独特な「女の子」の絵がかかげられている。それがぼくを惹きつけた)。
ちょうどこの本のシンポジウムが新宿の紀伊国屋でひらかれ、当時ぼくはこのシンポジウムを聴きに足をはこんだ。この書物とシリーズの編集者であり著者の栗原彬が、シンポジウムの冒頭で「内破(implosion)」ということばについて、モチーフと説明を加えていたことを覚えている。
細かい説明を覚えているわけではないけれど、このときから、ぼくのなかに<内破する>ということばが棲みつきはじめたのである。
<内破する>ということは、ことばのとおり、外側から力を加えて破るのではなく、内側からの力によって破ってゆくことである。
いろいろなものを「外部」から変革しようとしてきた時代や社会や組織・集団や人などを見て、あるいは経験しながら、「内側」の充溢した力によって内側から破ってゆくこと、突破してゆくこと、変革してゆくことが、いっそう大切であると、ぼくは思う。
これからの社会が変わってゆくうえでも、コミュニティが変わってゆくうえでも、組織・集団が変わってゆくうえでも、そして、個人が変わってゆくうえでも、それぞれに、<内破する>ことが決定的に重要である。
<内破>ということばがぼくのなかに棲みつきはじめてからだいぶ経って、ぼくは、見田宗介(社会学者)が、「卵は内側から破られなければならない」というダグラス・ラミスのことばをとりあげて、「世界を変える方法」について書いているところに出会った(『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』岩波新書、2018年)。
外側から卵を割るのではなく、内側の生命みずからが、育ってゆくことを阻害するものがあるのであれば、卵を内側から破っていかなければならない。見田宗介はこれからの世界の「変革」の方法について、この点を強調している。
<内破する>という仕方は、ぼくが生きてきた実感としても、とても大切な方法であることを、ぼくは感じる。
さて、水俣病の場に身をおきながら実践し考えてきた栗原彬は、冒頭に挙げたシンポジウムのなかで、市民社会の「行き詰まり」は必ずしも「悪い」ものではないということを語っていた。「行き詰まり」を感じることの重要性に焦点をあてたからである。栗原彬は、「行き詰まり」は<内破への契機>になるのだと、指摘したのであった。
ぼくたちが経験する、さまざまな「行き詰まり」を<内破への契機>として生ききること。「行き詰まり」自体を豊饒に生きつくすこと。そして、<内破する>こと。じぶんの「内側」から破ってゆくこと。
「世界」はそんなふうにして、今までと違った風景をみせてゆくことになる。