矢沢永吉がツアーを一年休んだとき。- 休んだことによる「発見」。 / by Jun Nakajima

「ほぼ日刊イトイ新聞」の創刊21周年記念企画、矢沢永吉x糸井重里の対談が興味深い。

たとえば、その「第3回:やってたら、落ち着くの」(2019年6月8日配信開始)のなかで、歌手の矢沢永吉が「一年ツアーを休んだときのこと」を語っている。話の文脈は、第3回のタイトル「やってたら、落ち着くの」にあるように、なぜ、こうして歌手としてやりつづけているのかという問いへの応答である。

矢沢永吉が歌手として「いちおう食べれる」ようになってから、ハッピーじゃないことに気づく。まもなく70歳になる矢沢は、「俺は、金じゃなくて、やりたくてやってる。…やってたら、落ち着くの」と語る。

やることの大きさではなく、それぞれの人なりに「じぶんがやりたいことが、落ち着くことが、あるか、ないか」が大切なんだと、糸井重里と「ほぼ日」の乗組員たちをまえに語るのである。

そんな発言を聴きながら、糸井重里が、「一年ツアーを休んだこと」がよかったのではないかと、問いを投げかける。

それに対して、矢沢永吉は、こんなふうに、興味深い応答をしている。


矢沢 あのときはね、なんだ、俺、気づいたら、走って走って、転がって転がって、行って行って、これじゃまずいなと思ったのよ。ただひたすらに機関車のように走って、そうじゃなくてさ、どこかの街をこう歩いていると、ちょっとあぜ道があったり、横丁があったりして、ちょっと入ってみたいなぁって思ってひょいと曲がってみたりして、これが生きてるってことじゃない?…

「矢沢永吉x糸井重里 スティル、現役。」第3回、「ほぼ日刊イトイ新聞」創刊21周年記念企画


「道」が呼びかけてくる。それは、実際の街にあるあぜ道や横丁でありながら、心の奥深くにたたずむ<道>であるかもしれない。「生きられていないじぶん」が、心の奥深くから、呼びかけてくる。そんなふうに、ぼくはいったん読みながら、先をつづける。そして、その先が、とても興味深いのだ。

矢沢永吉は、こう語り続ける。


矢沢 で、ちょっと、今年はツアーやめる、と。やめて、逆にその横丁みたいなとこ、ちょっと覗いてみて、入ってみたらどうなるのか、発見があるかもしれないと思ったんですね。…すると、どうなったか?…なんにも発見がないことがわかった。

「矢沢永吉x糸井重里 スティル、現役。」第3回、「ほぼ日刊イトイ新聞」創刊21周年記念企画


一年ツアーを休んで、横丁に入ってみて、「発見」を期待したけれど、そこには「なんにも発見がないこと」がわかる。矢沢は、あくまでも「ぼく」のこととして、また器用でない「ぼく」のこととして、この経験を伝えている。「そうなんだよ、人生ってそんなもんなんだよ!」、と。

糸井重里も、周りで聴いている人たちもみな、笑う。矢沢永吉も期待したように、糸井重里も、周りで聴いている人たちも、それから読者も、「発見」を期待してしまう。どんな「発見」があったのだろうと。でも、矢沢にとって、そこに「発見」はなかった。

「発見」がなかったことを聞いて、人はそれぞれに、いろいろと応答するかもしれない。「休み」の効果や「横丁」の呼びかけについて、いろいろと語るかもしれない。そのことについて、矢沢永吉は積極的に口をはさむことはしないだろう。

ぼくが思うのは、それでも、なんにも発見がないことが「わかった」ということ自体に、矢沢永吉にとっての「意味」があっただろうし、そこを転回軸として、「やりたくてやってる」という方向につきぬけてゆくことができたのではないかということである。

「そうなんだよ、人生ってそんなもんなんだよ!」と矢沢永吉が言うとき、そこには投げやりがあるのではなく、そんな人生を、そんな人生だからこそ、その過程を味わいつくしてゆくのだというところに走りぬけていく力としての潔さがあるように、ぼくにはきこえる。