真木悠介(見田宗介)の名著『気流の鳴る音』(筑摩書房、1977年)のなかに、野本三吉さんという魅力的な人物がとりあげられている。『気流の鳴る音』が発刊されたときから約40年後、真木悠介というペンネームではなく、本名である見田宗介の名で書かれた『現代社会はどこに向かうか』(岩波新書、2018年)のなかで、ふたたび、野本三吉さんがとりあげられる。『気流の鳴る音』に出遭い、それから約25年ほどにわたって、『気流の鳴る音』と共に(文字通り)世界を旅し、生きてきたぼくにとって、「野本三吉」という名はもちろん、なじみの深い名であった。
「野本三吉」という名はペンネームで、本名は加藤彰彦。野本三吉=加藤彰彦は、いわば福祉的な仕事を経て、横浜市立大学に招かれ大学で授業をもつようになり、2002年に沖縄大学に移ったのだという。沖縄大学のホームページには自己紹介のページがあり、そこに目をとおしていると、彼の「モットー」にぼくはひきつけられる。
生きること、それがぼくの仕事。君は君の足元を掘れ、ぼくはぼくの足元を掘る。
「生きること、それがぼくの仕事。」まずは、この言葉に感覚がゆさぶられる。と同時に、「ただ生きる、ということを、したいのよね」という、真木悠介の他の著作(『旅のノートから』岩波書店)に登場する人物の語る言葉がどこかから聞こえてくる。ただ生きるということをすること。それは現代社会においては、とてもむずかしいことである。そこではただ生きるということは背景に押しやられて、なにをしてきたのか、どんな達成をとげてきたのか、どんな地位にあるのかなど、富や栄光や権力などが前景化される。時代は変わろうとしているし、じぶんの「ほんとうのしあわせ」へと軌道修正をくわえているひとたちもたくさんいる。けれども、これまでの近代・現代社会の発展の起動力でもあった富や栄光や権力などに高い価値がおかれる「世界」のなかで、「ただ生きること」は「なにもしていない」ように見られ、無価値の烙印を押されてしまうのだ。そんななかにあって、野本三吉=加藤彰彦は「生きること、それがぼくの仕事。」と言い切っている。明快だ。明快なのだけれど、そこには言葉の深みがたたずんでいる。
その言葉に続いて、「君は君の足元を掘れ、ぼくはぼくの足元を掘る。」とつづく。ひとによっては、君とぼくのあいだの「つながりの欠如」を見るのかもしれない。それは例えば、「君は君で、ぼくはぼくで」という語感に、狭い意味での個人主義を感覚してしまうからだ。でも、ぼくはこの言葉に、あるいは生き方に共感してしまう。生き方のあり方のひとつが、このシンプルな言葉によって表現されている。
逆のことを言ってみる。「君はぼくの足元を掘り、ぼくは君の足元を掘る」のだと。そう書いてみると「変な」感じがしてしまうのだけれど、日々の生活のなかで体験したり見たりするのは、けっこう、この言葉が指し示しているようなところであったりするようにも思う。他者があれこれ、こうだ・ああだと「じぶん」に助言したり、コメントしたり、決めつけたりする。でも当の「じぶん」はというと、じぶん自身で「じぶん」を掘り下げてゆくことをせず、他者への助言やコメントや決めつけに忙しい。こんな具合にである。
そうではなくて、ぼくは、「君は君の足元を掘れ、ぼくはぼくの足元を掘る。」というあり方に惹かれる。君も、ぼくも、彼女も、彼も、だれもが「じぶん」の足元を掘ってゆく。「足元」は、村上春樹の小説であれば「井戸」のイメージであらわれる。足元を掘ってゆくように、井戸の底に降りてゆく。ぼく自身のイメージでは、海底である。ぼくは海の深い底に降り立ってゆく。掘って掘って掘ってゆく。降りて降りて降り立ってゆく。
文芸評論家の加藤典洋(1948-2019)は、著書『村上春樹の短編を英語で読む 1979-2001 上』(ちくま学芸文庫)にて、そのような村上春樹の小説を読みときながら、「掘って掘って掘ってゆく」思想のかたち、掘ってゆくことを(孤立のなかで)きわめてゆくなかでひととの「つながり」の海へと出てゆく思想のあり方が、戦後日本ではめずらしくないことへと、思考をひろげている。村上春樹の小説の「井戸」はもとより、思想家の吉本隆明の自立思想(「井戸の中の蛙」)、じぶんの無力の底へと落ちてみることを促す森田療法など、この思考のかたちを見ることのできる草原を加藤典洋は横断してゆく。
このような「掘って掘って掘ってゆく」思想(=生き方)のかたちは、野本三吉=加藤彰彦のモットー「君は君の足元を掘り、ぼくはぼくの足元を掘る」にも見られる。そして、それぞれの思想のかたちが同じように想定しているように、ずーっと掘っていった底のところで、君とぼくは「つながる」ことになる。君にじぶんの足元を掘ってもらうのではなく、じぶんが君の足元を掘るのではなく、じぶんでじぶんの足元を掘ってゆく。それは、自立のことであり、また他者との、深いところでの「つながり」のことである。