海外で生活をしていく際に「お金」はやはり必要なのだけれど、ぼくが20年程前にニュージーランドに旅立ったときは、およそ50万円ほどの所持金であった。
大学生の頃にはもちろん大きなお金ではあるけれど、一年を過ごす予定でニュージーランドに旅立つ際に、その金額で何とかなってしまったことは、ぼくのなかに、お金も含めて「なんとかなる」感覚を醸成したのだと、今になっては思う。
なぜ「50万円」であったかというと、当時、ニュージーランドのワーキングホリデー制度のビザ申請において「必要な資金」を持っていることの証明が必要であったことだ。
当時は、(確か)50万円であったと記憶しているけれど、じぶんの銀行口座にその金額以上あることを、通帳のコピーを提出することで証明する必要があった。
ぼくは日夜、東京でアルバイトをしながら資金を貯めることで、なんとかその金額にのせることができた。
(確か)ビザが取れてから航空チケットを購入したので、実際に行くときには、その金額を少し切るようなところであったと思う。
航空チケットは、1年オープンの往復チケットを購入しなければならず、しかし逆に、資金が尽きれば、復路のチケットで帰国するという「緊急策」はある。
それでも、初めて暮らすことになる海外で、50万円を切るくらいの金額で旅立ったのは、なにはともあれ、ひとつに恐れを知らない「若さ」とそれから情熱であったのだろう。
今であれば、たったの50万円で、まったく知らない異国で暮らすために、収入のあてもなく旅立つという無謀なことには、一歩も二歩も足がひけてしまう。
あのときは、「今行かなければ」という焦燥感のなかで、とにかくビザを取るための最低限の資金をもって、ぼくはニュージーランドに旅立った。
こうして、1996年4月にオークランドに降り立ち、ぼくはニュージーランドで暮らすことになった。
南半球のニュージーランドは、ちょうど秋で、これから冬に向かってゆくところである。
オークランドにあるANZ銀行(後に東ティモールでもお世話になる)で、ぼくは海外ではじめて、銀行口座をひらく。
当時お金に心配がなかったわけではない。
少し書いていた日記を読み返すと、お金がみるみる減っていくことに、ぼくは焦りを感じていた。
宿は、最初はバックパッカー向けの安宿で、ドミトリーに宿泊しながら、「空白の未来」に、どのように進んでいくのかを考えていた。
安宿とはいえ宿代もかかり、焦りがつのる。
「早く仕事を見つけなければ…」と。
オークランドを一度はなれ、ファーム(農場)での仕事などにも一時トライしたけれど、結局ぼくはオークランドに戻ることに決める。
オークランドに戻り、住むところを探し、仕事を探す。
今ふりかえると、それはひとつの物語のように、「道」がひらかれていったように、ぼくには見える。
新聞で見つけたシェアハウスの一室を借りることができ、オークランド大学の大学生たちなどと住むことになる。
オークランドで仕事を得ることは容易ではないと言われるなか、たまたま、日本食レストランのウェイターの仕事を得る。
また、日夜働きながらぼくは資金を貯め、「空白の未来」に、「ニュージーランド徒歩縦断の旅」という目標を書く。
そうして、冬があけてくる9月の終わりに、ぼくはオークランドを発ち、「前哨戦」として映画『ピアノレッスン』で有名な砂浜のあるところまでの40キロほどを、歩いていったのだ。
1年をすごす予定が、ぼくのなかで何かの区切りがつき、結局9ヶ月ほどして、ぼくは日本に帰国することになった。
現地ですごすためのお金は、なんとかなってしまった。
「なんとかなる」という感覚が、こうして、ぼくのなかに醸成されていったのだと、ぼくは思う。
それはお金だけでなく、海外で生活をしてゆくということもそうだし、何かをきりひらいていくこともそうだし、そして何よりも、人との出会いにおいてもである。
その後の人生で、「海外に行きたいけれど、迷っている人たち」の相談を受けたりする。
どこで迷っているかにもよるけれど、それがうまく行かないんではないかという「漠然とした怖れ」のようなものであれば、ぼくは迷わずに肩をおす。
人は、道をあゆんでいるときには懸命で気づかなかったりするけれど、後の人生の歩みのなかで、ふと振り返りながら思い起こす。
なんとかなるもんだな、と。
一歩をふみだして、やはりよかったのだ、と。