「じぶん」というものを相対化していけばいくほどに、ぼくは二人の実践家であり思想家に、ひかれていくように感じる。
整体の創始者と言われる野口晴哉、それから養老孟司。
二人の共通点は、自然としての「身体」への真摯なまなざしである。
養老孟司は80歳を迎え、著書『遺言』(新潮新書、2017年)を世に放ったばかりである。
『遺言』についてはまた取り上げたい本だけれど、最近、野口晴哉の文章のなかに、「我は去る也」という≪遺稿≫があるのを知った。
実を言うと、その≪遺稿≫が収められている著作『碧巌ところどころ』は読んでいたのだけれど、その著書の最後に置かれている≪遺稿≫を、ぼくは読むことなくやりすごしていたのだ。
野口晴哉の≪遺稿≫に目を向けさせてくれたのは、松岡正剛による野口晴哉『整体入門』の書評である。
松岡正剛の書評サイト「千夜千冊」のなかに、野口の著作の書評があり、ぼくは松岡正剛に教えられたわけだ。
野口晴哉の遺稿は、昭和51年に書かれた。
野口晴哉がこの世を去った年だ。
「我は去る也」と書く野口晴哉が、実際にこの世を去ることを予感していたかは、ここの文章からはわからない。
「箱根に移る」と書かれているから、「我は去る」先は、ひとまず箱根であった。
世を去ることにしろ、箱根に移るにしろ、野口晴哉は「伝え授けることのむづかしさ」を深く深く感じながら、この遺稿を書いている。
我は去る也 誰にも会うこと無し
…
我は去る也 心伝え 技授け 今や残す可き何も無し
伝え授けることむづかしき也 我は授けしと思えど 何も会得せざる人多き也 我伝えしつもりなるに 十日あとには何も伝わりおらざりしを認めさせられること多き也 所詮 自ら会得せしこと以外に 伝え授けること出来ざる也 我が去るはこの為なり
野口晴哉『碧巌ところどころ』全生社
伝え授けること、またそれを止めることの比喩として、野口は「空中に文字を画くこと ここで止める也 空中への放言も終える也」とも書いている。
伝え授けることのむづかしさは、空中に文字を画くようなもの、あるいは空中への放言のようなものだと、語られている。
あの野口晴哉でさえ、というか、野口晴哉だからこそ一層に、そのように深いところで感じていたのかもしれないと、ぼくは遺稿の「余白」を読む。
松岡正剛は、なぜ「我は去る也」と書いたのかをかんがえながら、野口のような独創の持ち主のまわりには多くの人たちがあつまりながらも、多くは野口を生かそうとは思わず、野口はそこに疲れ、失望したのだろうという考えにいきつく。
松岡正剛はそこでギアを変え、しかし野口晴哉が残した整体は、逆に後世に着実に広まっていったことに着目している。
松岡正剛は次のように書いている。
なぜ野口の意志をこえて広まったのか。野口が主題ではなく、思想ではなく、方法を開発したからなのである。野口は「方法の魂」を残したのだ。野口自身はその方法を早くに開発していたから、そののちはむしろ人々の「思い」や「和」や「覚醒」を期待しただろうけれど、創発者からみれば追随者というものは、いつだって勝手なものなのだ。
松岡正剛「野口晴哉 整体入門」、書評サイト「松岡正剛の千夜千冊」より
松岡正剛の解釈に教えられながらも、ぼくは、ぼくだって勝手なものかもしれないとも思う。
ぼくは野口晴哉の「思い」から入って、「方法」は後回しだ。
そのような思いを抱きながら、野口晴哉の「我は去る也」が、ぼくの心にとどまって、去ろうとしない。
人間に、人間の身体に真摯に向き合ってきた野口晴哉と養老孟司。
野口晴哉の「遺稿」と養老孟司の「遺言」。
二人の巨人に、ぼくは真摯に向き合うだけだ。
「我は授けしと思えど 何も会得せざる」と、野口晴哉が空中に放言されようとも。
遺稿と共に、野口晴哉の次の言葉が、ぼくの心に鳴り響いている。
溌剌と生きる者にのみ
深い眠りがある
生ききった者にだけ 安らかな死がある
野口晴哉『碧巌ところどころ』全生社