<ことば>とは、<言葉の力>とは。- 「近代的自我」からはなれてみて。 / by Jun Nakajima


「近代的な自我」というもの(あるいは現象)について、今でこそデフォルトであるけれど、「絶対のもの」ではないことを、考える。

「精神」こそが<私>というものであって、「身体」はその<私>の所有物であるというような「近代的な自我」の図式は、今でこそ多くの人たちに信じられているけれど、その歴史はここ数百年ほどのものである。

筑波大学助教でメディアアーティストでもある落合陽一が、以前、テレビ番組(スマホで朝生)における「AI時代の生き方」に関する激論の中で、「近代的自我」の浅い歴史について簡単にふれ、それも将来には変わってゆく可能性を淡々と語っていた姿が印象に残っている。

落合陽一の、そこまで徹底した客観的な認識の土台が、「近代的自我」を(無意識に)絶対視するような人たちと交わされる議論の「すれ違い」のひとつの原因である。

人間は、将来、今とはまったく異なる「自我の認識と感覚」をもちながら生きてゆくのかもしれない。

 

「言葉」(あるいは「言葉の力」)ということも、「自我の認識と感覚」の立ち位置によって、異なる様相をぼくたちに開示する。

「自我の比較社会学」をきりひらいてきた社会学者の見田宗介は、次のような話を紹介する。

出産直前になっても頭を下にしない胎児(逆子)を直したといわれる、整体の創始者である故野口晴哉の話だ。

その評判を聞いたイスラエルの母親が、野口晴哉のところにやってくる。

ヘブライ語ができない野口は、仕方がないから日本語で、「オイ逆さまだぞ、頭は下が当たり前なんだぞ」と言ったら、翌日には正常に生まれたという。

このエピソードにたいして、見田宗介は次のように書いている。

 

 胎児は、日本語の単語を知っていていうことをきくわけではない。言葉を発するときにこめられた<気>に感応しているのだと、わたしは思う。
 「神秘的」なはなしではない。「硬い身体」にとじこめられて他者から孤立した「内面の精神」だけが<私>だという、近代的な身体感・自我感から解放されれば、ごくあたりまえのことである。
 わたしたちが言葉を交わしているときに、ほんとうはたがいの身体の全体が感応し合っているのだ。ことばとは、このような間身体の呼応のことのは、事の一端をなすにすぎない。言葉は気の波がしらである。
 ただ人間の指先や耳たぶなどに鋭敏な気が集中してゆくように、この波頭には、気が凝縮してこめられている。非近代社会の人びとが呪術のうちに感受していた「言葉の力」とは、このような現象の核に、様々な意匠の神話を分厚くまとったものではなかったか。

見田宗介「近代を馳けぬける身体」『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫

 

齋藤孝がどこかで、コミュニケーションとは「意味」と「感情」の二つを伝えるものだ、というような趣旨のことを書いているのを読んだ記憶があるが、「間身体の呼応」はいわば「感情の交流」である。

近代的自我に「憑かれている」ぼくたちは、どうしても「意味」に集中しがちであるけれど、「言葉の力」は意味だけに限定されるものではない。

 

海外にいると、日本から旅行などできている、外国語を話さない「おばちゃんたち」の力に圧倒されることがある。

買い物にしろ、普通の会話にしろ、現地の人たちに、容赦ない普通の日本語で話しかけている。

驚かされるのは、そのコミュニケーションで、なんとかなってしまうことである。

もちろん「状況・情況」によって、想定はできるのだろうけれど、それを補うような仕方で、「言葉の気の波頭」が伝わってゆくようだ。

だから外国語を学ぶ必要がないということではないけれど、「意味の病」から逃れること、つまりその根底にある「近代的な身体感・自我感」からいったんはなれてみることで、ぼくたちの世界を見る眼は変わったりもする。

歴史家ユバル・ハラリが言うような人間の未来、「Homo Deus」は、「近代的な身体感・自我感」からはなれてゆく人間たちが、(同時に)これまでとはことなる方向に人間をつくってゆく姿を描いている。

「わたくしといふ現象」(©️宮沢賢治)は、未来において、どのようにたちあらわれ、「自我の認識と感覚」を変えてゆくのだろうか。