社会学者の真木悠介(見田宗介)がくりかえし引用する、ナワトル族の哲学詩がある。
直近では、2016年に書かれた論考「走れメロス」において、冒頭に引用されていた。
さらに、その論考をもとになされた大澤真幸との対談でも触れられている(見田宗介・大澤真幸『<わたし>と<みんな>の社会学』左右社、2017年)。
最初に著作のなかで引用されたのは、おそらく(違っていたら別途書きます)、真木悠介の素敵な著作『旅のノートから』(岩波書店、1994年)である。
真木悠介の「生のワーク」として書かれた30片くらいのノートのひとつに、「天と地と海を」という一片がある。
そのページに、このナワトル族の哲学詩と、イカム族の諺が縦横に並べられている。
[ナワトル族の哲学詩から]
われわれの生のゆくえはだれも知らない。
ひとは未完のままに去る。
そのために私は泣き
私はなげく。
けれどもこの世ではこの世の花で私は友情を織る。
大地の上にはー花と歌。
真木悠介『旅のノートから』(岩波書店、1994年)
この(おそらく)最初に取り上げられた形から、20年以上を経て(見田宗介名で)書かれた論考「走れメロスー思考の方法論について」では、真木悠介にとって<ほんとうに大切な問題>の光があてられることで、次の部分だけが取り上げられている。
われわれの生のゆくえはだれも知らない。人は未完のままに去る。
けれどこの世ではこの世の花で友情を織る。
ー大地の上には花と歌
ナワトル族の哲学詩から
見田宗介「走れメロスー思考の方法論について」『現代思想』2016年9月号
「比較社会学」という方法で「人間の解放」を追い求めてきた真木悠介が、当初は直感的に魅かれた詩であるように、ぼくは推察する。
「どのようにしたら歓びに充ちた生を生きることができるか」という純化された問いに導かれるように、真木悠介は人や社会における「相乗性」の契機を軸のひとつとして、理論を構築してきた。
人や社会の「相克性」をみないわけではない。
真木悠介(見田宗介)自身が述べるように、『現代社会の理論』(岩波新書)や『社会学入門』(岩波新書)においても、相克性ということが明晰にとりあげられている。
それでも、人の生や社会を解き放つ契機として「相乗性」を正面からみすえているのだ。
この「相乗性」ということにおいて、ナワトルの詩は、直感的に魅かれた詩でありながら、真木悠介(見田宗介)のその後の論考の道を照らしてきたものでもある。
冒頭に掲げたナワトルの詩は、人間がこの世に生きるということの意味を究極支えるに足るものとして、第I水準または第II水準と第Ⅲ水準とにおける無償化された相乗性、無償化された肯定性ー花と友情ーを想起している。
共同体も市民社会も生命世界も、本来は集列性である。相克あるいは無関心である。この地からその部分と
して、最初は方法としての相乗性 instrumental reciprocityが立ち現れる。そのあるものは効用のループをこえて無償化し、純粋な情熱と歓びの源泉となる。
…それは派生的、部分的なものであるままで、それ自体派生的、部分的な存在であるわれわれの生きることの根拠を構成する力をもつ関係となる。
見田宗介「走れメロスー思考の方法論について」『現代思想』2016年9月号
ここでいう「第I水準または第II水準と第Ⅲ水準」は、真木悠介(見田宗介)が提示する「現代人間の五層構造」の水準である。
第0水準の「生命性」を土台に、人間性、文明性、近代性、現代性の五層である。
真木悠介(見田宗介)が丁寧に述べているように、派生的・部分的な契機にすぎない「相乗性」は、それでも確かに生きることの根拠を構成する力をもつ関係となって、ぼくたちの生きることを支えている。
ナワトルの詩は、そこに一編の光をさしこんでいる。
ひるがえってぼくは「真木悠介にとってのナワトルの詩」のような「詩」をもっているだろうか、とかんがえてしまう。
ぼくにとっては、このナワトルの詩が最初に置かれた、真木悠介の著作『旅のノートから』の冒頭に置かれた一編に、いつも戻ってくるように思われる。
「life is but a dream, dream is, but, a life」(真木悠介)