真木悠介(社会学者の見田宗介)の豊饒な生の日々にリフレインしていた詞。
「life is but a dream. dream is, but, a life」
真木悠介『旅のノートから』岩波書店、1994年
「インドの舟人ゴータマ・シッダルタの歌う歌を、イギリスの古い漕ぎ歌にのせて勝手に訳したもの」(前傾書)であると、真木悠介は書いている。
「人生はただの夢、しかし夢こそが人生である」というこの詞は、ぼくの「ことばにできないことば」を言葉にしてくれた。
生きることの全体が、ここに言い尽くされている。
ここでふれられている「夢」を理解するためには、「夢」を二層化する必要がある。
- 目標・ゴールを大きくした「夢」
- 生きること全体の物語としての<夢>
「夢はなんですか?」という問いのように、通常に語られる「夢」は、この1番目の「夢」である。
真木悠介のすてきな詞は、この2番目の<夢>を照準している。
これら二つを別の言い方で言えば、タイトルに掲げたような言い方になる。
- 物語の中の「夢」
- 物語全体としての<夢>
ここでは仮に、「物語」を<一冊の本>としてかんがえてみる。
つまり、ぼくたちの生の全体、一生が<一冊の本>である。
「物語の中の「夢」」とは、一冊の本の主人公である「私」が、本の中で、物語が展開してゆくなかで抱く「夢」である。
他方、「物語全体としての<夢>」とは、一冊の本そのものである。
「人生はただの夢、しかし夢こそが人生である」という詞は、ぼくたちの生が、ただ夜見るような「夢」(=幻想)のようにはかないものだけれど、このひとつの物語である<一冊の本>としての<夢>(=幻想)こそが、人生であることを、シンプルさを極めた仕方で語っている。
ぼくたちは、この<一冊の本>の外部に出ることはできない。
真木悠介は、見田宗介名で書いた別の文章のなかで、このことを明晰に語っている。
…だれも幻想の外に立つことはできない。物語批判は物語の否定ではない。人間は物語の外部に立つことはないからである。どのような物語を生きるかということだけを、わたしたちは選ぶ。
見田宗介『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫
この意味においては、人はだれしもが、夢見る人 dreamer なのだ。
「しかし夢こそが人生である」ことを明晰に理解することは、「どのような物語を生きるかということ」の選択の方へ、人をおしだしてゆくのである。
こうして、人は物語の内部で、豊饒な物語を(つくられながら)つくっていく。