言葉は「目と耳とを同じだとするはたらき」(養老孟司)。- ヒトと社会の底流にながれる「同じ」という意識の機能。 / by Jun Nakajima


養老孟司の著書『遺言』(新潮新書、2017年)は、シンプルな記述と意味合いの深さの共演(響宴)にみちた本である。

分類の仕様のない本であるけれど、「人間」にむけられた深い洞察に、思考の芽を点火させられる。

本それ自体については、また別途書きたいと思う。

 

養老孟司の思考の照準のひとつが、「同じ」ということにあてられる。

第3章は「ヒトはなぜイコールを理解したのか」と題され、「当たり前」の覆いを取り、思考をそそいでいる。

この思考のプロセスがスリリングであるが、「結論」だけを、ここの箇所から取り出しておく。

 

…動物もヒトも同じように意識を持っている。ただしヒトの意識だけが「同じ」という機能を獲得した。それが言葉、お金、民主主義などを生み出したのである。

養老孟司『遺言』新潮新書、2017年

 

「同じ」という機能が言葉を生み出したと、養老孟司はいう。

通常、ふつうにかんがえても、このつながりはよくわからない。

「意識と感覚の衝突」という項目でプラトン(養老孟司はプラトンのことを「史上最初の唯脳論者」と呼ぶ)にまでさかのぼりながら、「乱暴なこと」と認識しながら、次のように、「言葉」について語る。

 

…いうというのは、言葉を使うことであって、言葉を使うとは、要するに「同じ」を繰り返すことである。それをひたすら繰り返すことによって、都市すなわち「同じを中心とする社会」が成立する。マス・メディアが発達するのも、ネットが流行するのも、結局はそれであろう。グーグルの根本もそれである。われわれはひたすら「ネッ、同じだろ」を繰り返す。なぜなら言葉が通じるということは、同じことを思っているということだからである。動物はたぶんそんな変なことはしていないのである。

養老孟司『遺言』新潮新書、2017年

 

言葉は現実を裏切る、などとよくいわれる。

言葉は物事を「言い尽くせない」のは本来は通常のことであり、人間は「同じ」という意識の機能、その産出物である「言葉」で、言い尽くせないものを名付け、「同じ」ものとして集団で認識していく。

養老孟司の思考はさらに「科学」的にきりこんでゆき、「同じ」はどこから来たか、と問うていく。

脳の構造と機能にその起源をもとめていき、ヒトの脳の「大脳新皮質」の進化に目をつける。

ヒトの脳の特徴は大脳皮質(特に新皮質)が肥大化したことにあるという。

情報処理の機能である。

 

 視覚の一次中枢から聴覚の一次中枢までを、皮質という二次元の膜の中で追ってみよう。視覚、聴覚の情報処理が一次、二次、三次中枢というふうに、皮質という膜を波のように広がっていくとすると、どこかで視覚と聴覚の情報処理がぶつかってしまうはずである。そこに言葉が発生する。
 なぜか。言葉は視覚的でも聴覚的でも、「まったく同じ」だからである。というより、ヒトはそれを「同じにしようとする」。…
 つまり目からの文字を通した情報処理も、耳からの音声を通した情報処理も、言葉としてはまったく「同じ」になる。

養老孟司『遺言』新潮新書、2017年

 

この意味において、言葉は「目と耳とを同じだとするはたらき」である。

言葉というものの「強さ」と同時に、言葉がよってたつところの基盤の「危うさ」を思わせる。

 

「考えるということ」は「分けること」でもあると、ぼくはかんがえる。

あるものを、論理で分けながら、綿密に「分」析していく。

養老孟司の思考をここに注入するとするのであれば、「同じ」という土台の基盤において、できるかぎり「違い」において分けていく、ということであろうか。

別の「同じ」という機能の言葉を使って。

それは、この本の主題のひとつ、「科学とは?」ということとも繋がってくるということに、この文章を書きながら、ぼくは気づく。