2003年から2007年まで
東ティモールに住んでいたとき、
ぼくは一度、東ティモール政府の「人口
統計調査」(国勢調査)を受けたことが
ある。
(香港でも調査を受けたことがあります。)
東ティモールで「人口統計調査」を
受けた日本人は、あまりいないと思うけれど。
詳細は覚えていないのだけれど、
ぼくの記憶には、首都ディリの事務所
の風景、それから調査用の小さな用紙
のイメージが今も残っている。
記憶に残っている理由の一つは、
人口統計調査を受けた際に困ったから
である。
この「困ったときの感情」が、まるで
スマートフォンで写真を撮るとき
のように、その風景を、カシャ、と
切り取ったようだ。
でも、「困ったこと」は、ぼくにとって
は大切な学びであった。
「困ったこと」とは、調査用の用紙に
あった設問である。
それは、自身の「宗教」を選択する設問
であった。
ぼくは、特定の宗教をもたないため、
選択に困った。
それまで、東ティモールを含め、海外に
いると、
「あなたの宗教は何ですか?」
と聞かれることがあった。
そのときは、アニミズムとか、
「自然」だとか、で応答していた。
ただし、今回は、用紙の選択肢の中に
そんな選択肢はなかったのだ。
(ちなみに、東ティモールはほとんど
の人たちが「カトリック」である。
ポルトガルの影響である。)
ぼくは、この設問項目と選択肢に
とまどったことを、今でも覚えている。
最終的には、ぼくは、選択肢にあった
「仏教」を選択した。
とまどった本当の理由は、
「宗教がないと人と認められない」と
いう感覚をもったからだった。
日本に住んでいると、「宗教」には
さまざまな「偏見」がともなっている。
でも、西アフリカのシエラレオネでも、
東ティモールでも、宗教は、日々の
生活に根ざしている。
ぼくも、そんな人たちを尊重して、
教会の大切なイベントに参加したりした。
イスラムの祈りの時間を尊重して、
待機したりした。
宗教が、宗教として存在する磁場があった。
だからといって、ぼくは、特定の宗教を
もつことはしない。
でも、世界に暮らしながら、もっと宗教の
ことを理解しようと、学び続けている。
「宗教社会学」という扉からの学びは
知的興奮に満ちたものだ。
社会学者の大澤真幸や橋爪大三郎の著作
から学んでいる。
二人が登場する対談の著作『ふしぎな
キリスト教』だとか、『ゆかいな仏教』は
学びでいっぱいだ。
そして、社会学者の真木悠介(見田宗介)
の名著『自我の起原 愛とエゴイズムの
動物社会学』。
その著作の補論は、宮沢賢治を読み解き
ながら、「自我の地平線」と真木がいう
「性現象と宗教現象」について展開されて
いる。
「宗教」を理解することは、人間や文化、
そして文明までを理解する手がかりとなる。
それは、ぼく自身を理解することでもある。
追伸:
東ティモールにいたときに、もうひとつ
戸惑ったことは、
「結婚することで一人前」とみなされる
社会であったことだ。
でも、東ティモールに長くいると、
その感覚が身にしみてわかっていった。
「家族」っていいなと心より感じさせて
くれた。