ニュージーランドで、「フルーツの皮を庭に投じること」にみるシンプルな自然サイクル。- フルーツをカットしながら考えること。 / by Jun Nakajima


ここ香港で、フルーツを食べようと、ナイフでりんごやオレンジの皮をむきながら、ふと、ニュージーランドに住んでいたときのことを思い出した。

ちなみに、りんごは、ニュージーランド産のものだ。

それはそれとして、1996年にニュージーランドのオークランドで暮らしていたとき、ぼくは一軒家の一室を借り、同年代のニュージーランド人6名(主に大学生)と共に、ひとつ屋根の下で生活していた。

オークランドの中心部から歩いて20分から30分くらいのところであったと記憶している。

一軒家は2階建てで、バルコニーがあり、バルコニーの前には庭があった。

同居人たちは、フルーツなどを食べるとき、その皮などを、庭に浅く掘った穴のなかに投じていた。

「自然」の土にかえすわけである。

このことは、東京の生活からニュージーランドの生活に突如変わり、ここでの生活で驚きと感動を得たことのひとつであった。

世界どこでも「自然」があるところでは普通のことであろうけれど、それまでの人生を都会ですごしてきたぼくにとって、そのような「実践」が自然に、そして普通のこととしてなされていることに、ぼくは驚きと感動を覚えたのだ。

だから、ぼくもその「ルール」にしたがって、土にかえせるものについては庭の穴に投じるようにした。

 

ニュージーランドでの暮らしを終えて、東京にある大学に復学し、環境学や社会学や経済学や国際関係論などをまなんでいった中で、近代社会・現代社会における「生産と消費」にかんする「明瞭な図式」に出会うことになる。

社会学者の見田宗介による名著『現代社会の理論』(岩波新書)にでてくる図式だ。

ぼくがニュージーランドにいた1996年に出版された書籍であり、今もなお、その内容はまったく古くなっていない。

 

 現在の社会のシステムを特徴づける、大量生産も大量消費も、宇宙的真空の中で行われるわけではないから、わらわれはこのシステムを、次のように把握し直さなければならないだろう。

     〔大量生産→大量消費〕…①
          ⇩
〔大量採取(→大量生産→大量消費)→大量廃棄〕…②

「大量生産/大量消費」のシステムとしてふつう語られているものは、一つの無限幻想の形式である。事実は、「大量採取/大量生産/大量消費/大量廃棄」という限界づけられたシステムである。
 つまり生産の最初の始点と、消費の最後の末端で、この惑星とその気圏との、「自然」の資源と環境の与件に依存し、その許容する範囲に限定されてしか存立しえない。

見田宗介『現代社会の理論』(岩波新書)

 

「大量採取」は資源やエネルギーを採取することであり、「大量廃棄」は消費後に環境に向けて廃棄することである。

聞いてみれば「当たり前のこと」であるかもしれないけれど、多くの人は明確に理解していないだろうし、またこのように「見える化」することで明瞭になる。

そして、これら始点と末端が、いわゆる途上国などに負担が転嫁されていく。

ところが、グローバリゼーションの進展は、そこに「地球」という限界を見出すのだ。

さらに「宇宙」にということもあるけれど、当面の現実としては、「限界」にぶつかってしまう。

「リサイクル」ということは、この流れのなかで、廃棄から生産への「サイクル」をつくることを目指す。

しかし、リサイクルとして語られることの一部は、暫定的な対応にとどまり、つまり完全な「サイクル」はつくることができない。

 

見田宗介が描いた明瞭な図式を見ながら、「フルーツの皮を庭に投じること」ということは「自然からの採取→(生産→)消費→自然への廃棄」というサイクルをつくることの、シンプルな実践であることに気づく。

「厳密さ」を追求していくとほかにも調べたり、考えたりしなければいけないことはたくさんあるけれど、ぼくはニュージーランドで経験した「シンプルな実践」のなかに、可能性のひとつをみることができたことが、驚きと感動につながったのだと思う。

その後、例えば東ティモールの山に住んでいたときも、いわゆる「生ゴミ」は、自然の土にかえした。

しかし、都会の生活のなかでは、やはり「廃棄」で途切れてしまう。

近年は、日本では「生ゴミ処理機」などがつくられ、コンビニエンスストアで出る生ゴミ処理、家庭での生ゴミ処理に使われているという。

その実践は(詳細のことはわからないけれど)、ぼくたちに希望を与えてくれる。

 

フルーツの皮をナイフでむきながら、この皮を直接な仕方で「自然」にかえせないことを考えながら、ぼくはニュージーランドでの「シンプルな実践」に想いを馳せる。

都会という空間での生活の仕方が問われている。

倫理主義的ではない、よろこびと楽しさを基底とする方向に舵を切ってゆく方法を軸としながらの転回を、である。