ぼくの中に根をはって生きる「西アフリカのリベリア」。- リベリアに「光」をあてて。 / by Jun Nakajima


西アフリカのリベリア国とニューヨークを舞台とした映画『リベリアの白い血』(原題『Out of My Hand』)が8月5日より日本で公開されているようだ。

ニューヨークを拠点とする日本人監督の福永壮志による作品。

ゴム農園で働くリベリア人男性が、移民としてニューヨークに渡り、そこでさまざまな問題に直面してゆく。

 

西アフリカのリベリアは、ぼくの<内面のグローバル地図>に強く刻まれている国のひとつだ。

リベリアは、シエラレオネの東隣の国(首都モンロビア)。

アメリカで解放された黒人奴隷たちが移住し、1847年に独立建国された国だ。

1989年から2003年にわたって内戦がつづいた。

 

ぼくは、その最終年2003年に、ちょうどシエラレオネにいた。

そして、ぼくのシエラレオネでの最初の仕事は、リベリア難民たちのキャンプ運営の補佐であった。

リベリア内戦では、約14年間に、27万人が亡くなり、79万人の難民が発生したといわれている。

難民が向かった先のひとつが、隣国シエラレオネであった。

当時、シエラレオネも内戦が終結したばかりである。

国連難民高等弁務官(UNHCR)のもとで、国際NGOが共同でキャンプ運営にあたっていた。

その中で、ぼくが所属していたNGOは、国連機関と他の国際NGOと共に、5,000人規模のキャンプ二つを管理していた。

だから、ぼくは、リベリアの人たちとも日々を生きていたのだ。

 

映画『リベリアの白い血』のことを知ったのは、写真家の亀山亮の告知であった。

亀山亮と出会ったのは、シエラレオネのコノにおいてであった。

ぼくは、コノ地区の事務所にうつっていて、その時、アフリカ3国(シエラレオネ、リベリア、アンゴラ)をまわっていた亀山亮がシエラレオネのコノに写真撮影にきていたのだった。

シエラレオネのあとに、亀山亮は内戦が激化するリベリアに旅立っていった。

リベリアの首都モンロビアでは停戦がくずれて、戦闘が激化した。

銃声や爆発音が響き、迫撃砲がとんでいた。

シエラレオネのスタッフたちもぼくも、亀山亮のことが心配であった。

 

ぼくはそれからシエラレオネをいったん離れるため、首都フリータウンの空港にいた。

テレビにうつるリベリア内戦の状況をぼくは空港の椅子にすわって見ていた。

そのとき、ぼくの名前を呼ぶ、懐かしい声が聞こえ、そこには亀山亮がいた。

彼から聞くリベリア内戦の状況に、ぼくは言葉を失った。

 

後日、そのときに撮られたリベリア内戦の状況を、亀山亮の写真ドキュメンタリーの写真と文章にみることになり、再び言葉をうしなうことになる。

映画『リベリアの白い血』は、今ここ香港では観ることができないけれど、ぼくは、ここ香港で、亀山亮の写真ドキュメンタリー『アフリカ 忘れ去られた戦争』(岩波書店)を再びひらく。

そのようにして、リベリアに「光」をあてる。

ぼくは、忘れていない。

リベリアの内戦と、リベリアの人たちを。

 

亀山亮は写真ドキュメンタリーの「あとがき」に、こんな言葉を置いている。

 

「気づかせることが唯一の強さだ」
写真家W・ユージン・スミスの言葉を大事にしたい。

亀山亮『アフリカ 忘れ去られた戦争』(岩波書店)

 

気づかせることが唯一の強さ。

リベリアを直接に知り、リベリアの人たちとあの日々を生きたぼくに、この言葉が重くのしかかってくる。

一歩として、このように文章で、リベリアに「光」をあてる。

「彼らの闇からの魂の叫びが、本当に僕たちに届く日」(亀山亮、前掲書)に向かって。