「いいから黙って言われた通りのことをしなさい」という修業について、思想家・武道家の内田樹は「ゴールのわからない未知のトラックを走る」ようなものだと、著書『修業論』(光文社新書)のなかで述べている。
自身の合気道の修業を身体的なベースとしながら、「修業ということ」の本質を丁寧にさぐっている。
…走っているうちに「自分だけの特別なトラック」が目の前に現れてくる。新しいトラックにコースを切り替えて走り続ける。さらにあるレベルに達すると、また別のトラックが現れてくる。また切り替える。
そのつどのトラックは、それぞれ長さも感触も違う。そもそもを「どこに向かう」かが違う。はっと気がつくと、誰もない場所を一人で走っている。…
内田樹『修業論』光文社新書
修業というものは、そのような「未知」を走る。
しかし、以前からよく言われるように、「いいから黙って言われた通りのことをしなさい」と頭ごなしに言われると、若い人たちは耳を貸さない。
内田樹は、このようなふるまいを、「消費者」という視点を導入して、語っている。
消費者が商品を見定めるときに例えば「何の役に立つのか?」ということを聞いたとして、その問いに対し(修業のように)「使ってみればわかる」と答えるような売り手はいない。
使い道がわからない商品はこの世に存在しない。とりあえず、今の子どもたちはみなそう信じています。現に、家庭でも学校でも、あらゆる機会において、子どもたちは何かするときに「これをするとこれこれこういう『善いこと』がある」という説明を受けて利益誘導されています。
内田樹『修業論』光文社新書
「利益誘導」ということは、内田樹も説明しているように、「努力のインセンティブ」を与えていくことである。
前述のように消費者的な視点を引き入れると、努力をすると「商品」が得られるというプロセスなのだが、修業とはそのようなものではない。
「ゴールのわからない未知のトラックを走る」ようなもので、あらかじめ、明確なゴールが示されるものではない。
ゴールは、「あれはそういうことだったのか」という事後の気づきという形で、語られる。
そういうものだ。
著書『修業論』は、そのようなことがわからない「子ども」に対して書かれた本である。
しかし、内田樹が展開していく論理は、この「まえがき」の導入から本文に入っていくなかで、一気にその論が先鋭化されていく。
「無敵とはなにか、天下無敵とはどういうことか」など、修業というものの本質が持つ強力な磁場に引かれるようにして、論は深くきりこんでゆく。
その強力な重力に、ぼくは一気に引っぱられている。
そのようにして、「ゴールのわからない未知のトラック」を、ぼくはただただ走り続けている。