予期せぬところから、波が打ち寄せる「音」が聞こえてくる。
人工的につくられた海岸通りをゆっくり走り、立ち止まったときのことであった。
積み上げられた巨大な石たちに、小さな波がぶつかる音だった。
よく来る場所であったけれど、これまでは、ぼくの耳には聞こえていなかったようだ。
それは、とても新鮮な響きであった。
ある種のリズムがありながら、しかし、波が石たちにぶつかり散開する音は一定ではない。
家で蛇口をひねって出てくる水の「一定の音」とは異なり、そこには、自由に散開する響きがあった。
その異なりに、新鮮な驚きを覚え、心が動かされた。
10年以上前に、東ティモールの海岸線で聴いていた波の音が思い出された。
思想家の内田樹は、「自然が教えてくれるもの」という問いにたいして、定型的ではない私見を提示している。
…自然から子どもが学ぶ最大のものは私見によれば「時間」である。…
都会にいるときに不快を減じるために時間をできるだけ切り縮めようとするのとはちょうど逆に、自然の中にいるとき、私たちは空間的現象を時間の流れの中で賞味することからできる限りの愉悦を引き出そうとする。
私たちが雲を観て飽きることがないのは、…それが「今まで作っていた形」と「これから作る形」の間に律動があり、旋律があり、階調があり、秩序があることを感知するからである。…
海の波をみつめるのも、沈む夕日をみつめるのも、…すべてはそこにある種の「音楽」を私たちが聴き取るからである。
その「音楽」は時間の中を生きる術を知っている人間にしか聞こえない。
自然に沈潜するというのは「そういうこと」である。
内田樹『態度が悪くてすみませんー内なる「他者」との出会い』角川oneテーマ21
都会の子どもたちは、管理された閉鎖空間の中で「時間意識」を損なっていくことに触れながら、内田樹は、「万象を『音楽』として聴くこと」へと誘う自然の中での生活を語っている。
波が打ち寄せる音と小さな波が散開する動きに、ぼくは「時間」の流れを賞味し、そして「音楽」を聴き取っていたということになる。
その瞬間に、五感はいつもとは違う仕方で、ふと、ひらかれたのだろう。
意識的にケアしないと、都会的な空間のなかで感覚が減じられ損なわれていってしまうことを、あらためてぼくに感じさせる。
感覚が減じられ損なわれた身体は、他者の声にならない声、メッセージにならないメッセージをうまく聴き取れない。
香港で、人工的な海岸の石たちに寄せる小さな波音は、そのような<小さなアラート alart>を、ぼくに送ってくれた。