思想家・武道家である内田樹の書く「まえがき」は、いつも素敵に文章を奏でる。
本文も「わかりやすい」(でもだからこそ深い)言葉で、鋭い切れ味の論理と独特のリズムを持って書かれているけれど、ぼくはいつもいつも「まえがき」の奏でる音楽に聴きいってしまう。
著書『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)を読もうとして、「構造主義」という思想にはいっていこうとしていたら、その「まえがき」につかまってしまったのだ。
「まえがき」で、内田樹は、この本が「入門者のために書かれた解説書」であることを語る。
そこから、「よい入門書」に関する考えが、やはり入門的に、書かれている。
…「よい入門書」は、「私たちが知らないこと」から出発します。
内田樹『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)
「専門家のために書かれた解説書」が「知っていること」を積み上げ式で積み上げてゆくのに対し、入門書は「知らないこと」から問いを始める。
それは、内田樹も言うように、ラディカルな(根源的な)問いにならざるをえない。
入門書は専門書よりも「根源的な問い」に出会う確率が高い。これは私が経験から得た原則です。「入門書がおもしろい「」のは、そのような「誰も答えを知らない問い」をめぐって思考し、その問いの下に繰り返しアンダーラインを引いてくれるからです。そして、知性がみずからに課すいちばん大切な仕事は、実は、「答えを出すこと」ではなく、「重要な問いの下にアンダーラインを引くこと」なのです。
内田樹『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)
「重要な問いの下にアンダーラインを引くこと」と、内田樹は繰り返し述べている。
例として挙げられていることで言えば、真にラディカルな「医学の入門書」があるとしたら、「人はなぜ死ぬか」という問いから始まるだろうと。
「死ぬことの意味」や「老いることの必要性」の根源的な考察などなど。
そんな入門書には会ったこともないし、会ってみたいと思う。
医学ではなく、ぼくが大学院で「(途上国の)開発学」を土俵としていたとき、方法論にしびれをきらしたぼくは、修士論文で、「開発とは何か」と、人や社会の発展と開発という根源的な問いに一気に下降していってしまった。
すぐに「現場」で使えるものではなかったけれど、そのときの考察はその後のぼくの「現場」での活動はもとより、今でもぼくの思考の土壌となっている。
そのようなぼくの資質もあってか、ぼくも「よい入門書」が好きである。
そして、内田樹の奏でる<入門の音楽>を聴きながら、ぼくは重要な問いの下にアンダーラインを引き続けるのだ。
「構造主義」などという思想はじぶんとは関係ないと思うだろうけれど、そう思う前に、この<入門の音楽>を聴いてみるのもひとつだ。
専門家だけでなく、ぼくたちのような普通の人たちの思考も、「構造主義の思考」の中でかけめぐっていると言われたら、どうだろうか。