三木成夫の著書との出会い。- それは、「ひとつの事件」(吉本隆明)である。 / by Jun Nakajima

解剖学者の三木成夫(1925-1987)。

三木成夫先生の著作との出会いは、確かに「ひとつの事件」であった、としか言いようのない出来事である。


三木成夫のことを知ったのは、加藤典洋の大きな仕事、『人類が永遠に続くのではないとしたら』(新潮社、2014年)という著書においてである。

「有限な生と世界を肯定する力を持つような思想」をきずきあげること、という、社会学者である見田宗介の提起する課題を真摯にひきうけながら、その方向へと歩みをすすめた著書。

この本の終盤、加藤典洋が「この考察をどこで終わればよいのか」と自問しながら、書きすすめていくなかで、吉本隆明(1924-2012)の著書『アフリカ的段階についてー史観の拡張』を素材のひとつとしてゆくところで、吉本隆明が三木の「解剖学的な人間観」にヒントを得ていたということが語られている。


 吉本の『アフリカ的段階についてー史観の拡張』における「動物生」といういい方、またその「精神史」と「外在史」という考え方の全体は、その最初のヒントを、この三木の解剖学的な人間観から受け取っている。吉本は、1990年代初頭に、三木の著作と出会い、彼自身のかつての言語学的な、また心的現象学的考察が、もう一つ深い発生学的な人間観、世界観へと踏み込めるのではないかと考えた。先に見た吉本の歴史観の更新の提言は、じつはそこから生まれてきたものにほかならない。…

加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』(新潮社、2014年)


その吉本隆明は、「三木成夫の著書にであったのは、ここ数年のわたしにひとつの事件だった。」と、三木が亡くなったあとに出版された著書『海・呼吸・古代形象』(うぶすな書院、1992年)の「解説」に書いている。

さらに、「…知識に目覚めはじめの時期に、もっとはやくこの著者の仕事に出あっていたら、いまよりましな仕事ができていただろうに…」と後悔の念をいだくこともあったというほどに、吉本隆明の思想にとって、決定的な影響をもったようだ。

吉本隆明のことばをそのまま借りれば、三木成夫の著書との出会いは、ぼくにとって「ひとつの事件」であったとも言える。


とはいえ、ぼくがようやく読み終わったのは、三木の生前に出されていた著作(2冊のみ)の一冊(『内臓のはたらきと子どものこころ』の文庫版)、『内臓とこころ』(河出書房新社、2014年)である。

三木の著作のうち、はじめて出版されたもので、講義録である。

読みながらこまったのは、ハイライトしたい箇所がいっぱいありすぎること、さらにBookWalkerの電子書籍で読んでいるのだけれど、ハイライトできる数なり量なりが限定されているので、途中でハイライトできなくなってしまったことである。

なにはともあれ、それほどにひきこまれてしまったのだけれど、では三木成夫は何を語り、なにがすごいのかというのは、まとめるのがむずかしい。

まだぼく自身のなかで混沌としていることが理由のひとつだけれど、他方で、解剖学をはみだしてゆく三木成夫の「思想のひろがりと深さ」が大きな理由でもあるだろう。


1978年ころにたまたま三木に出会うこととなった松岡正剛は、生前に発刊されたもう一冊の三木の著作『胎児の世界』(中公新書、1983年)をとりあげて語るなかで、三木成夫はもともと解剖学者であること、しかし、ゲーテを愛した形態学者であり、徹底した反還元主義者であり、言霊主義者であり、そしてタオイストであったとしている(松岡正剛「胎児の世界」、Webサイト『松岡正剛の千夜千冊』)。

また、三木の弟子といわれる布施英利は、著書『人体 5億年の記憶:解剖学者・三木成夫の世界』(海鳴社)にかんするインタビューの冒頭で、三木成夫の解剖学の「ユニークさ」について、つぎのように語っている。

布施 「…三木成夫がユニークなのは解剖学全般の研究をすべて体系化しようとしたことにあります。だから、人間や動物だけじゃなく、植物とか、星も出てきちゃう。それらをある意味で人体に集約させているわけですよ。そこに人間の胎児を扱う発生学、もっとずっと長いスパンで過去を遡る進化の視点も取り込んでいく。比較解剖学は今生きている猿や魚なんかを比べるという横の比較なのに、そこに(発生学や進化の)縦の比較も全部含めちゃうから、何かの思想のように見えちゃうわけですよ」

「五億年の生命の記憶から人体がわかる!解剖学者・三木成夫を解き明かすその弟子・布施英利インタビュー」、Webサイト『TOCANA』


三木が務めていた大学の学生たちも、松岡正剛も、布施英利も、養老孟司も語っているように、三木成夫は相当に変わった人(おもしろい人)だったようである。

養老孟司は、また三木成夫の時代がやってくるという予感をいだいているようだが、ぼくもその「予感」を感じ、その「予感」のうちに、三木成夫の著書を読む。

三木成夫の著書との出会い、それは「ひとつの事件」である。