膨大な情報と知見と好奇心が織りこめられている、Webサイト「松岡正剛の千夜千冊」。
すでに、1000冊は優にこえ、これを書いている時点で、中島春紫『日本の伝統 発酵の科学』の一夜が最新となっており、1687夜(1687回)である。
最新で書かれてゆく「一夜」には、その都度、立ち寄って、松岡正剛の眼をとおした「一冊」に耳をかたむけるのだけれど、まだまだ100夜(100冊)にもおよんでいないだろう。
これとはべつに、ぼくは、思想家・武道家の内田樹のブログ「内田樹の研究室」を最初に書かれたところに遡って読んでいて、それは1999年からのもので、いまだに2000年時点に書かれたブログの文章世界のなかを歩いている。
「読み終わること」が目的ではなく、知見に学ぶこと自体を楽しみ、そして「生きる」ことを賦活していくことを念頭にしているから、歩みを急ごうとは思わない。
カルロス・カスタネダの作品に登場するドン・ファンの教えに共感して、「心のある道」を歩んでゆくだけである。
「松岡正剛の千夜千冊」のことに触れたのは、「1685夜」で、『プラスチック・ワード 歴史を喪失したことばの蔓延』(藤原書店、1998年)という、ウヴェ・ペルクゼンの著書をとりあげていて、興味深い内容であったから、ブログで書いておきたいと思ったためである。
この「1685夜」をぼくは読み飛ばしてしまっていたようで、昨日のブログを準備しながら、解剖学者である三木成夫のことをしらべているときに、「松岡正剛の千夜千冊」にて『胎児の世界』という、三木が生前に発表していた著書2冊のうちの一冊がとりあげられているのを見つけたときに、ぼくの視界に「プラスチック・ワード」も入ってきたのであった。
ここですべてをとりあげることはしないので、興味のある方は松岡正剛のまとめと見解に直截に触れられるのがよいかと思う(原著はドイツ語で、『プラスチック・ワード』の英語訳を探したのだけれど、まだ電子書籍にはなっていないようで、「なるべく電子書籍」のぼくとしては本それ自体はまだ読んでいません)。
ぼくが焦点をあてたのは、シンプルに、「プラスチック・ワード」という言葉とその条件、あるいはその実例的な言葉の一群であった。
本ぜんたいには、副題「歴史を喪失したことばの蔓延」に逆説的に語るように、「歴史を内包することば」の衰退(世界の「言語」が減少してきていることを含めた衰退)が、重奏低音のごとくひびいている。
そのような文脈のなかで「プラスチック・ワード」が語られるのだが、松岡正剛の「要約」は、つぎのようにまとめている。
世界を牛耳る言語には、いくつものプラスチック・ワード(plastic word)がある。プラスチック・ワードとは、意味が曖昧なのにいかにも新しい内容を伝えているかのような乱用用語のことだ。
合成樹脂のようにできた言葉だから、一応の成型はいくらでもできるが、体温も生活も感情もない。たとえば、「アイデンティティ」「マネージメント」「コミュニケーション」「インフォメーション」「マテリアル」「グローバル化」「トレンド」「セキュシャリティ」「パートナー」「コンタクト」「イニシアチブ」「ソリューション」などなどだ。
これらはその用語を発しさえすれば、それにまつわるいっさいの状況の進展や当事者の方向をどこか一方に押し出していく。押し出しながら中味を充実させることなく、圧倒的な猛威を奮っていく。
読みながら、ぼくは「あらら…」と、じぶんの内面で声を発してしまう。
プラスチック・ワードとして挙げられる言葉の一群は、ぼくがつかってきた/つかっている言葉の一群である。
そして、プラスチック・ワードとしての条件、つまりそこに「共通する特徴」を、ペルクゼンは、つぎのように抽出したのだという。
●きわめて広い応用範囲をもつ。
●多様な使用法がある。
●話し手には、その言葉を定義する力がない。
●多くは科学用語や技術用語に起源をもつ。
●同意語を排除する。
●歴史から切り離されている。
●内容よりも機能を担っていく。
●コンテキストから独立していく。
●たいてい国際性を発揮する。
●その言葉をつかうと威信が増す。
「アイデンティティ」「マネージメント」「コミュニケーション」「グローバル化」などのプラスチック・ワードとされる実例を見てから、これらの特徴をそれらに当てはめてみると、さらに考えさせられることになるのである。
さらに、つぎのような説明が加わって、プラスチック・ワードが、より具体的な「イメージ」とともに、ぼくたちに迫ってくるかのようだ。
多くのプラスチック・ワードが役所の文書、企業の計画書、流行雑誌のヘッドラインに乱れ飛んでいた。そうしたものでは、まずプラスチック・ワードが掲げられ、しばらく現状説明があって、途中にプラスチック・ワードが必需品であることが述べられ、また現状変革のための条件の説明に入り、最後にまたまことしやかにプラスチック・ワードで締めくくられる。
一見、体裁はととのっているようだが、なんの説明も深まってはいない。内容がなく機能に偏り、話し手には中枢概念(プラスチック・ワード)を説明する力がない。しかも、すべてが歴史から切り離されているのだ。
「まずプラスチック・ワードが掲げられ、しばらく現状説明があって、途中にプラスチック・ワードが必需品であることが述べられ、また現状変革のための条件の説明に入り、最後にまたまことしやかにプラスチック・ワードで締めくくられる」という形式が、どこか、ぼくたちの記憶のなかにも収まっているように感じられてくる。
ちなみに、この箇所につづけて触れられているように、「アメリカの民主政治・デモクラシー」を論じた、フランス人の政治思想家トクヴィルが、かつて、すでに1835年の時点で、「抽象化」「擬人化」「曖昧化」という傾向を<アメリカ英語>がもっていることを指摘していたということは、注目に値するところだ。
松岡正剛は、『プラスチック・ワールド』には煮え切らないところや説得力が足りないところ、取り逃がしているところがあるとして若干の見解を加えている。
この本自体や著者ペルクゼンの著作ぜんたいを精査的に読みこんだわけではないので、ぼくはそのことについての見解は書けないし書くべきではないと思うけれど、プラスチック・ワードの定義と実例、共通の特徴などを概観しただけでも、考えさせられることがあるし、学びを得るところがある。
ぼく自身としては、ペルクゼンが挙げるような「プラスチック・ワード」的な特徴をぼくなりの感覚のなかで感覚し、考えることによって、アイデンティティやコミュニケーションやグローバル化やマネージメントなどの内実を考察し、歴史軸をも作動させ、実際に生きることのなかに位置づけようとしてきたことを、作法のひとつとしてきたことを、ここに書いておきたい。
でも、そのような仕方は、プラスチック・ワードへの「抵抗・対抗」としてよりも、むしろ、生きることのなかで、それらの言葉の内実を深く考えざるをえないような地点におしだされることによってであったように、ぼくは思う。
また他方、プラスチック・ワードとして挙げられるような言葉が必ずしも「負の側面」だけを身におびているというのではなく、なにごともよい面とわるい面があるように、よい面としての効用・効果も発揮してきた/発揮しているようにも思ったりする(プラスチック・ワードの定義として「乱用用語」とあるように、「乱用」を避ける知性が、これらの言葉に問いを付す)。
それはたとえば、「意味が曖昧で新しい言葉」としていったん歴史的な言葉から離れ、それが鏡になることでじっさいの内実を問うという方向にゆくこともできるのではないだろうか。