「水を飲む」ということが、ぼくにとって、当たり前になったのはいつであったろうか。
今思えば、この問いは奇妙な問いである。
今では、とても大切なこととして、水を飲んでいる。
常温の水、あるいは冬であれば温めた水を飲む。
冷たい水を飲むことはほとんどない。
「喉がかわいたから」という理由以上に、生きるということそのものであるような仕方で、水を飲む。
グラスに注いだ水をあじわいながら、そして感謝しながら、ぼくは身体のすみずみを潤すように水を飲む。
ぼくが子供の頃、「飲み物」は、麦茶であったり、緑茶であったり、スポーツドリンクであったり、ジュースであった。
もちろん学校の休憩時間では、蛇口をひねって水を飲んだし、外食時には氷のいっぱいにはいった水も飲んだ。
でも、水それ自体は「脇役」のような立ち位置にあった。
10代の終わりから、海外を旅するようになって、「水」とぼくの関係は変わりはじめる。
アジアを旅している間、もちろん、「水」は蛇口からそのまま飲むことはできない。
「水」は買わなければいけない。
ニュージーランドに住んでいたときは、蛇口の水がそのまま飲めたけれど、ぼくはキャンプをしながら、「水」のありがたさを身体にきざんでいく。
20代からは、アフリカやアジアの蛇口のないところで、仕事をする。
「水」そのものの確保がむずかしい地域で、水を確保し、水を使い、水を飲む。
おそらく、そのころから、ぼくは水を「常温」で飲むようになったのだと記憶している。
氷は「贅沢品」でもある。
常温の水を飲み続ける内に、常温の水がぼくの身体に適合するようになっていく。
また、世界それぞれの場所で飲む「異なる水」は、ひとつひとつに個性あるあじわいを教えてくれ、ぼくの楽しみのひとつとなった。
水のひとつひとつの「個性」に出会う中で、いつしか、水にこだわるようになっていく。
高級な水というこだわりではなく、じぶんの<身体に合う水>へのこだわりである。
こうして、いつしか、「水」は、ぼくの生のなかで、脇役ではなく「主役」になる。
コーヒーも紅茶なども楽しむけれど、主役は「水」である。
水が主役の場におどりでるまでに、相当な年月がかかった。
ぼくにとっては、「デフォルトである社会」(当時の日本社会)を出て、水とぼくとの関係がかわっていくプロセスである。
「水」というものがその社会でおかれるポジションみたいなものがあって、ぼくは、デフォルト社会を出てみることで、そのポジションを確かめてゆくという道のりを通過することになった。
また、「水のおいしさ」を身体からあじわうまで、相当な年月がかかった。
なにはともあれ、ぼくは、今、こうして、おいしい水を飲むことができる。