哲学者の鷲田清一は、東日本の大震災から一年が経とうというときに、著書『語りきれないことー危機と痛みの哲学』(角川書店、2012年)を書き、危機や痛みに直面したときの「語りなおし」ということを語っている。
そのように語ることの、ひとつの出発点は、<物語>としての自己のあり方である。
わたしたちは誰しもが、わたしはこういう人間だという、じぶんで納得できるストーリーでみずからを組み立てています。精神科医のR・D・レインが言ったように、アイデンティティとは、じぶんがじぶんに語って聞かせるストーリーのことです。
人生というのは、ストーリーとしてのアイデンティティをじぶんに向けてたえず語りつづけ、語りなおしていくプロセスだと言える。
鷲田清一『語りきれないことー危機と痛みの哲学』(角川書店、2012年)
生きていくなかで、これまでじぶんに語りつづけてきたストーリーが崩壊していくような契機に、ぼくたちは出会う。
阪神大震災や東日本の大震災などの天災、大切な人をなくしてしまうこと、病気になることなど、「危機と痛み」の直面する。
その都度、人は、じぶんのストーリーを語りなおしていく。
…事実をすぐには受け入れられずにもがきながらも、…深いダメージとしてのその事実を組み込んだじぶんについての語りを、悪戦苦闘しながら模索して、語りなおしへとなんとか着地する。…言ってみれば、<わたし>の初期設定を換える、あるいは、人生のフォーマットを書き換えるということです。
鷲田清一『語りきれないことー危機と痛みの哲学』(角川書店、2012年)
鷲田清一は、<わたし>という「物語の核心(コア)」をなすものとして、次のものを挙げている。
- 出自(じぶんは誰の子か)
- 性
これらのコアに、さらに3つのことを加えている。
● じぶんにとって大事な人
● 家
● 職
震災などでは、これらのいずれか、あるいは複数を喪失しているなかで、じぶんの「物語」を語りなおしていかなければならない。
このような認識を基盤にして、鷲田清一は、それらが現場でどのようになされるのか/なされるべきなのかを、繊細な言葉で、丁寧に語っている。
ぼくは大学時代に、鷲田清一の著書『「聴く」ことの力ー臨床哲学試論』を読んだことがある。
詳細は覚えていないけれど、ただ「聴く」ということについて、とても繊細な見方があるのだと、ぼくは本の語りの息づかいに耳をすませていた。
『語りきれないことー危機と痛みの哲学』のなかでも、「聴く」ことへのまなざしが生きていて、そのことの方法と困難さにふれられている。
語る声と聴く耳。
フランスの思想家ミシェル・フーコーは、「声と耳」に「権力」の構図をあきらかにしたけれど、ここでの<声と耳>は、じぶんと他者が存在を分かちあうようなものとして書かれている。
しかし、鷲田清一が書いているように、言葉が交わされる場とその関係性はとても繊細なものであり、また「分かる」ということは「他者の心持ちを知りつくせないことを思い知ること」(鷲田清一)でもあるのであろう。
はたして、他者の「語りなおし」に、この繊細さをもって寄りそうことができているだろうか。