「考える」とは、その本質において「(物事を)分けること」というふうに、ぼくはかんがえる。
「分けること」とは、物事を論理的に分けていくことである。
だから、この見方においては、「論理的に考える」という言い方は便宜的なものであって、本質的には、「考える」ことのなかにすでに「論理」が含まれている。
津田久資は著作『あの人はなぜ、東大卒に勝てるのかー論理思考のシンプルな本質』(ダイヤモンド社)で、「考える」ということを、ビジネスにおいて「競合に勝つ」という視点・焦点において、「学ぶ」ことから切り離しながら、次のように定義している。
● 学ぶ=既存のフレームワークに当てはめて答えを導く
● 考える=自分でつくったフレームワークから答えを導く
「思考力で競合に勝つ」という視点をつきつめてゆくなかで、「勝つ」ということを、「思考の成果、つまり発想(アイデア)において相手よりも優位に立つこと」とし、そこから発想において「負ける」ということのパターンとして、論理的に3つ挙げている(前掲書)。
<発想における敗北の3つのパターン>
① 自分も発想していたが、競合のほうが実行が早かった
② 自分も発想し得たが、競合のほうが発想が早かった
③ 自分にはまず発想し得ないくらい、競合の発想が優れていた
これらを言い換えて、津田は次のように簡素化する。
① 実行面の敗北
② 惜敗(「しまった」)
③ 完敗(「まいった」)
そのうえで、90%以上の敗北は②の「しまった」にあるとし(人は同レベルの「戦場」に集まる傾向を背景としている)、その処方箋として「論理思考」を立てる。
「論理思考力」をつきつめてゆくなかで、津田久資は「考える」こと、またそれを構成する「言葉」の本質にきりこんで、次のように本質を取り出している。
● 「考える」とは「書く」である
● 「言葉」とは「境界線」である
津田が指摘しているとおり、「論理(logic)」の語源は、「ロゴス(logos)」=言葉であり、言葉はその本質にして「論理」的なのである。
そのことを、津田は、「言葉」とは「境界線」であると表現している。
言葉は機能(「境界線」)として、対象を切り分けるのである。
切り分ける機能として、それは「考える」ということを本質として内包していることになると、ぼくはかんがえる。
「考える」とは「書く」であると、津田久資が述べていることに興味をおぼえ、ぼくは立ち止まる。
人が考えているかどうかを決めるのは、その人が書いているかどうかである。
アイデアを引き出すとは、アイデアを書き出すことにほかならない。少なくとも大多数の人にとってはそうである。…
本当に何かを考えたときには、そのプロセスや最終的なアウトプットについて、何かしら必ず書いているはずである。逆に言うと、それがない限り「考えていた」とは言えないのである。
津田久資『あの人はなぜ、東大卒に勝てるのかー論理思考のシンプルな本質』(ダイヤモンド社)
例として、ダイエーの故・中内功がとんでもないメモ魔であったこと、エジソンの生涯3500冊のノートなどが挙げられ、逆に「少数派の例外」として「小説の最後の1行が決まるまで、ペンを執らない」作家の三島由紀夫が取り上げられている。
「書く」ことは、視覚化することでもある。
人間の文明が「視覚」を発展の原動力としながら、「視覚」文明をつくりあげてきたということを、ぼくは重ね合わせながら、かんがえてみる。
文明の発展の構造と駆動はぼくのなかでまだ漠として繋ぎあわさっていないけれど、「書く」ことで世界がひらかれてきたことは、「書く」ことの力を思えば、経験上わかるように思う。