心理カウンセラーの心屋仁之助に、よく知られている「前者/後者論」がある。
心屋仁之助の著作『心屋仁之助のそれもすべて、神さまのはからい』(王様文庫、2017年)における「前者/後者論」の記述をまとめると(要約ではない)、下記のようになる。
●「前者」=「空気が読めて、理解力もあり、理論的。表現力もあって、多くのことを同時にこなせ、処理能力も高い」タイプ。努力しなくても、比較的マルチに、複数の仕事を同時にこなせるタイプ。「有能」タイプ。「秀才」タイプ。
●「後者」=「天然で癒し系、表現がストレートで、何でも素直に受け取る(真に受ける)」タイプ。多くのことはこなせないが、何か一点に集中できるタイプ。「天然」タイプ。「天才」タイプ。
心屋仁之助は、これまでのカウンセリングや問題解決の経験から、またさらには、心屋仁之助と奥様との間の「話の噛み合わなさ」の解明において、これら「前者/後者論」(呼び方は特定のものがなく、ただ文章における順序を指して「前者/後者」であったものがそのまま使われているとのこと)を獲得している。
「前者」と「後者」の違いが、人間関係で「誤解」や「行き違い」、「問題」をつくっているのではないかと、心屋仁之助は気づくのである(※前掲書)。
ジョン・グレイが「Men are from Mars, Women are from Venus」という絶妙のタイトルで男女(脳)の違いを示したのと同じように、心屋仁之助は「前者/後者論」で、前者と後者との違いを示している。
この論を語り始めてからも実際に多くの共感者を得ており、特に論の「根拠」を示す必要もないと思われるから、そこには触れていない。
根拠にかかわらず、そこに実際の現象があり、その解明と視点が、多くの人たちの「助け」になっている。
それでも、ぼくの思考は自然と、その「根拠」をどこかで探し求めているようで、社会学者である見田宗介が書いた「思想の身体価」という文章が思考のなかで浮かんでくる。
「自由」とか、あるいは「自立」とかを求めるのは、そこに<生きる/生きられる身体>があるということである。
身体論としては、それを野口晴哉の「体癖論」の類型が参照されている。
ある集団において「スナドリネコさん」と「ぼのぼの」と呼ばれるようになった二人の、彼(女)たちの「二つの身体類型」(ここではそれぞれ、SとBと名づけられる)を事例に、見田宗介はこの短い論考を書いている。
Sは、野口晴哉の整体の体癖論では「9種1種」、つまり骨盤がしまっていて性欲旺盛でいつまでも若く、空想と観念の自己増殖力に富む身体であり、Bはほぼこれと対照的に、「10種3種」とよばれるのだが、骨盤が開いていて包容力があり、身体がやわらかく感情が豊富で食べることが好き(引出しの中はちらかっている)という身体である。この両者はたがいに魅かれ合うらしくカップルも多い。…SはBの先天的な「自由さ」に魅かれ、BはSの「自立性」に魅かれるのである。Bは容易に人に共感し、まきこまれて自己を失ってしまうので、「自立」や「自我の確率」や「主体性」という観念に憧れている。ところがSにとっては、「自立」とか「自我」とか「主体性」とかははじめから強すぎてあきあきしていて、Bのように自由に自在に世界にまきこまれ、自分を失ってしまう能力に魅かれてしまう。…
見田宗介「思想の身体価」『定本 見田宗介著作集X:春風万里』岩波書店
見田宗介はこの文章に続いて、もう少し具体的に、SとBの「違い」を記述している。
ここで語られていることが、ぼくにとっては、心屋仁之助の「前者/後者論」の根拠の一部を語っているようにも感覚される。
野口晴哉の「体癖論」の詳細はいったん置いておくとして、心屋仁之助の「前者/後者」はそれぞれに、身体のあり方を異にしているのではないか、ということである。
心屋仁之助は、「前者/後者」のそれぞれの特性を基礎にしながら、「前者」は(後者に)<与えること>で後者の幸せになり、「後者」は(前者から)<受け取る>ということで前者の幸せになると、前掲書で書いている。
SとBが惹かれ合うように、前者と後者も惹かれ合う。
そのような対比をしながら、ぼくの思考は、「前者/後者論」はそれぞれの身体による違いを根拠のひとつ(あくまでもひとつ)とする「仮説」を形づくる。
ぼくの思考の戯れである。