コピーライターの糸井重里が主宰する「ほぼ日刊イトイ新聞」(通称:「ほぼ日」)というウェブサイトがあり、そこでは「今日のダーリン」という、「糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの」というコーナーがあって、糸井重里は毎日、この「エッセイのようなもの」を書いている。
本日(4月9日)の「今日のダーリン」は、糸井重里の愛犬、ブイヨンが亡くなってから「半月ほど経った」ときの、ブイヨンの「不在」に照らし出される世界についてである。
「よく考えると、ずうっと犬のことを考えて、書いている。」と、筆がおかれている。
3月21日に愛犬のブイヨンが亡くなり、「ほぼ日」でも取り上げられたりしてきたブイヨンのこともあって、ここ最近の「今日のダーリン」でも、ブイヨンの「不在」と思い出が取り上げられたりしていた。
愛犬ブイヨンの亡くなった話はとても個人的な(あるいは家族的な)ものであるなかで、糸井重里は、ブイヨンの不在と思い出、そこに現れる感情を真摯に書き綴って、ぼくたちに伝えてくれている。
きわめて個人的な(あるいは家族的な)感情が凝縮されて綴られているからこそ、(ぼくのように)ブイヨンを知らなかった人たちにとっても、確かに、伝わってくるものがある。
その姿は、ぼくに、「Mister Rogers’ Neighborhood」というアメリカ教育番組のホストであった故Fred Rogers(フレッド・ロジャース)のことを思い出させる。
Fred Rogersは、あるとき、番組のトピックとして、とても難しい「死」を扱う。
テレビスタジオにある水槽で亡くなった「金魚」を弔う姿を、Fred Rogersは番組のなかで見せる。
水槽から亡くなった金魚をひろいあげ、スタジオの風景の一部である「庭」の土を掘り起こして、そこに金魚をうめてあげる。
その間、Fred Rogersはしゃべることをせず、テレビ番組でありながら、そこに言葉のない「静けさ」がひろがる。
土をかぶせてから、Fred Rogersはテレビカメラの向こう側にいる子供たちに向かって、語り始める。
そこで、彼が話し始めたのは、昔かわいがっていた犬のミッチが亡くなったときのことである。
とても、とても悲しかったときの思い出だ。
悲しみに泣き、おばあちゃんが来てはそばにいてくれ、そして「埋めなければならない」という父親の言葉に最終的にしたがう形で、ミッチをうめてあげたこと。
それから、ミッチとの思い出にほほえみを顔にうかべながら、ミッチの写真をみせて、楽しく親密な思い出を共有する。
Fred Rogersはこのようにして、「死」にどのように向き合うのかを、じしんの体験をその親密さのうちに語りながら、子供たちに語りかけてゆく。
これを見た子供たちは、「何か」を深いところで感じただろうと、ぼくは想像する。
糸井重里が愛犬ブイヨンの死に向き合いながら過ごす日々を語る筆致に、ぼくは、Fred Rogersのこの語りと<共通するもの>を感じる。
このような<語りづらいこと>が語られることで、それを読んだり聞いたり見たりする者に、何か大切なものが伝わる。
そしてそう感じながら、このような<文体>が今の時代において、あまり見られなくなってきたように、気づかされる。