日本の室町時代後期に編纂された歌謡集(編者は未詳)『閑吟集』のなかに、次のような歌が収められている。
何せうぞ
くすんで
一期は夢よ
たゞ狂へ
この歌の存在を、ぼくは、ひろさちや著『「狂い」のすすめ』(集英社e新書、2010年)で知った。
この本でひろさちやが現代語訳的に書くと、「何になろうか、まじめくさって、人間の一生なんて夢でしかない。ひたすら遊び狂へ」となる。
「くすむ」とは「まじめくさる」ということであるようだ。
ひろさちやが注釈をつけているように、室町時代の庶民たちが遊び狂っていたわけではなく、「現実には牛馬のごとく働かざるを得ない」状況であったのであり、その現実のなかで、《一期は夢よ ただ狂へ》と、願望をいだきながら歌ったということであったのであろう。
ひろさちやは、願望よりもそこにさらなる意味合いを付与し、「むしろ現実と闘うための思想的根拠であり、武器であった」と書いている(※前掲書)。
ひろさちやにとって、「思想・哲学」とは、<俺は世間を信用しないぞ>という意識のようなものである。
『閑吟集』のこの歌は、ひろさちやが現代を生きていくうえで、このような思想・哲学であり、武器となっている。
いいですね。わたしはこの歌が大好きです。そして、わたしはこれを
ーー「ただ狂え」の哲学ーー
と名づけています。この哲学でもって世間と闘ってみよう。そうすると、きっと視界が開けてくるだろうと思っています。
ひろさちや『「狂い」のすすめ』集英社e新書、2010年
ぼくも、この歌が好きである。
この歌は、ぼくの生き方の光源となっている、真木悠介のつくる言葉、「life is but a dream. dream is, but, a life.」と交差してくる。
「構造」としてみれば、同じ構造を共有している。
前半の部分で、「人生とはただの夢でしかない」と真木悠介は書いているけれど、これは「一期は夢よ」ということである。
その深い認識をもとに、真木悠介は「しかし、この夢こそが人生だ」という反転のなかに生きることの豊饒さをつかみとり、『閑吟集』のこの歌の作り手とそれを歌った庶民たちは「ひたすら遊び狂へ」という方向に思想・哲学をつかんでいる。
「ひたすら遊び狂へ」という方向につきぬけてゆくエネルギーの豊饒さに魅かれながら、意味合いとしてしっくりこないところがあったのだけれど、大岡信(大岡信ことば館)の注釈は、少し違う角度から、この歌の本質をついているように見える。
…中世以降の歌謡には無常観という太い底流があることはたびたび書いた通りだが、この小歌はそれを端的に吐き出していて忘れがたい。なんだかんだ、まじめくさって。人生なんぞ夢まぼろしよ。狂え狂えと。「狂う」は、とりつかれたように我を忘れて何かに(仕事であれ享楽であれ)没頭すること。無常観が反転して、虚無的な享楽主義となる。そのふしぎなエネルギーの発散。
「なにせうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ」閑吟集、大岡信ことば館
大岡信は「狂う」をほりさげて、「我を忘れて何かに没頭すること」としている。
この解釈は、その後に書かれる「虚無的な享楽主義」ということを超えるようにして、生きるということの、いっそう深い歓びを表現している。
歓びを感じるときというのは、ぼくたちが(短絡的な手段によらない仕方で)「我を忘れて」いるときである。
最近では、「フロー体験」などとも呼ばれ、ビジネスの現場においてもよく議論にのぼってくる。
大岡信は「虚無的な享楽主義」という書き方をしているけれど、むしろ、その後に書かれている「そのふしぎなエネルギーの発散」というほうが、この歌の本質をついているように、ぼくには見える。
大岡信のこのような注釈を、ひろさちやの注釈に重ねていく仕方で、この歌のもつ光がよりいっそう強くなるのだ。
それにしても、室町時代の人たちの見晴るかしていた「世界」の深さと、そこに切り開こうとした生き方に、ぼくは心を打たれる。
真木悠介の言葉の反転は、虚無に陥るのではなく、ぼくたちが生きているこの生の愛おしさを照らし出す光を、その言葉のうちにもっている。
「しかし、この夢こそが人生なんだ」というところに、虚無ではなく、いっそうの夢が、豊饒に重ね合わせられる。
ぼくたちは、この一期の夢を、この世に生きる間に、ただ生きつくすのみである。